烏合の民族






日本人が、ホンネのところで民族意識、国家意識が薄い国民だとよくいわれる。だから、民族意識、国家意識を高める教育をしようという声もあるが、そんなカンタンな話ではない。またそういう意識の希薄さを、八百万の神にお願いしてしまうという、独特な何でもありのあいまいな宗教心と重ね合わせて語られることも多いが、そんなコトでもない。問題は、そもそも構造的に民族意識、国家意識を持ち得ない理由があるのではないか、というところにある。それは、民族意識、国家意識というのは、自発的に「持つ」ものだからだ。そもそもモチベーション自体が欠如している。そう考えざるを得ない要素があまりに多い。

実は民族意識、国家意識というのは、濃い薄いという程度問題ではなく、日本国民の意識の中からは抜け落ちてしまっているものと考えたほうがいいのだ。実際の意識調査の結果を見ても、地域的な「コミュニティー」と、地球規模の「人類」への帰属意識は強いのだが、国家への帰属意識は極めて弱い。ただ弱いだけのみならず、年とともにどんどん弱くなっていることも読み取れる。それは、もともとなかった意識を、政治的・社会的な虚構としてあることにしていた化けの皮が、冷戦時代はいざしらず、戦後体制の風化とともに、段々とはがれてしまったからに他ならない。

コソボで血で血を洗う紛争を起こし対立している民族間の違いよりも、日本人であり、その中でも本州や九州にすむ人の中での人種的差異のほうが、余程大きいはずだ。西日本系の人からすると、青森の人や鹿児島の人は、明らかに他人だ。とても血のつながりがあるとは思えない。それより余程血のつながりを感じさせる人が、韓国や中国に住む人の中にいる。ぼく自身、父方も母方も、わかる範囲のルーツは山陽方面から北九州にあるのだが、そういう感じは強く持っている。日本の国民ではあっても、血のつながりというか、親近感の湧かない相手は多い。これはきっと相手にとってもそうなのだろう。

日本から離れて、たとえばベルリンで関西ネイティブの人と青森ネイティブの人が並んでいるのを、日本の事情を知らないヨーロッパのヒトが見たとするならば、東アジアの人が並んでいるとは思うだろうが、同じ民族とは思わないだろう。ここで大事なのは、違うという事実だけである。どっちがいいとか悪いとか、どっちが正当とか、どっちが偉いとか、そういう価値観ではないという点だ。好きとか嫌いということでもない。とにかく違うということを認めるかどうかだけ。

かつてイデオロギー時代のの価値観は、白と黒、正義と悪しかない一軸のヒエラルヒー的価値観に拘泥していた。どちらかが良ければ、そうでないものは邪。どちらかが偉ければ、どちらかが虐げられる。プラスなものは一つしかなかった。違う価値観が併存することはできなかった。その時代には、日本人のなかでの「違い」を認めるわけにはいかなかった。それを認めることは、差別に他ならなかったからだ。しかし、今は違う。それは個性の違いでしかない。そんなことにコダわる必要など全くない。

こういう違いは意識しないとわからないが、意識しだすと大きい問題だ。一人一人が受け継いだ「歴史」はさまざまであり、個人レベルでは一様ではない。しかし、あるレベルの大きさの集団になると、傾向値が出てくるというのは、統計論・確率論の常識だ。東京にも西日本出身の人は多いし、関西にもいろんな地域出身のヒトがいる。しかし、たとえば通勤時の地下鉄の車両一両に乗っている人を区切ってみれば、明らかに差異がある。わかるヒトが見れば、乗ってる人間の外見的特徴を並べただけで、それが東京の地下鉄か、大阪の地下鉄か充分わかるほどのものがある。

結局のところ、日本人という集団の構成員間には、相互の連帯性や求心力は働かない。これは事実として受け止めなくてはいけないし、ソリューションもそこから考えなくてはならないだろう。少なくとも、日本が国としてのまとまりを持つためには、天皇陛下に代表されるような、象徴的な求心力の中心をおき、そことの間でそれぞれが一対一の「スター型」の関係性ネットワークを持つ必要がある。確かに国はこれで成立する。だがこの場合成り立っているのは、あくまでも「個」対「象徴」の関係性でしかない。この方式では、国民相互の関係性というのは作りようがない。だから民族意識など持ちようがないのだ。

結局は、同じ島の中に居合わせているだけ。それ以上の関係性にはなりようがない。だから逆に、本来ならもっと地域ごとの郷土意識が強く、それが民族意識となってもおかしくはない。たとえば、東北民族とか、関西民族とか、規模からすれば決しておかしくはない。ヨーロッパの国としても充分な規模がある。ましてや民族となれば、それ以下の規模でも強固なものがある。バルカン半島の民族もそうだし、バルト三国もそうだ。「倭国大乱」とか「戦国時代」とか、日本国内でも地域ベースの内乱があった時代も歴然と存在する。元来そういう流れがあったのが、虚構の「島=国家」意識で隠蔽されてきただけと考えるべきだろう。

一つの民族ではないし、ましてや民族意識も確立していないというのが現実だ。これでは、民族の時代たる21世紀に世界的な存在となることはできない。一旦民族に分かれ、その上で日本としてのまとまりを確立することが必要だ。その結果が、一つにまとまるのか、いくつかに分裂するのかは、あくまでも結果である。しかし、一つにまとまるためには、一旦違いを受け止めることは必須だ。もしかすると内戦になるかもしれない。しかしそれも、本当の意味での民族意識を育てるためには避けて通れないものだろう。日本が世界の中で一人前の存在となるためには、このような「民族意識の確立」を通過儀礼とする必要があるのだ。その洗礼を受けてはじめて、日本が一人前の国家として認められるだろう。


(00/08/25)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる