21世紀の企業経営






この数年、数々の企業で危機管理の甘さによる不祥事や、トップのハンドリングや判断のミスによる事件が多発している。これは一過性のものではなく、20世紀型の日本の経営、ひいては日本の経営者のあり方自体の構造的問題が、抜き差しならないところまできた結果と見るべきであろう。日本の経営者の根本的な問題は、基本的に他力本願であり、他人のふんどしでの問題解決を図ろうとするところにある。それは、あくまで自分の責任を回避し、自分では何一つ決断もクリエイトもしないところに特徴がある。言い換えれば、これは本来の意味での責任ある「経営」がない問題ということになる。経営者と称する人々はいたものの、それは本当の意味での戦略的な経営判断を行うものではなかった。単に現場オペレーションの延長上で、外部要因にながされるままに舵取りをしていても、結果オーライでやってこられた。その結果、企業体質はヒトマネ中心になり、二番煎じ商品しか作れず、管理能力が皆無な組織であっても、「企業でござい」とエラそうな顔ができた。

少なくとも、20世紀型の経営においては、これが許されてきたコトも確かだ。それは産業社会が基本的に規模の拡大を追及し、右肩上がりの経済を基本としてきたからに他ならない。だから右肩上がりの極致といえる高度成長期には、マーケット依存・経営環境依存の「受動型経営」が成り立った。日本においてはこの体質が、お上だより、規制だよりの、護送船団体質のルーツとなったといえるだろう。そういう、自立性やダイナミズムを持たない企業も生き残れたのは理由がある。20世紀的な社会環境を前提とする限り、それが成功するか失敗するかについては、事前の最適化は不可能であり、市場の手に任せてみない限り結果はわからなかった。これは言い換えれば、ある種の不確定性が大きく、かつ常に存在するため、市場としての最適化は図られず、不適格な経営判断でも淘汰されないニッチが大きかったということになる。だから、ダメモトで勝算のないマーケットに参入しても、マーケットそのものが拡大する分、分け前にあずかれたということになる。

しかし21世紀を目前にして、経営のIT革命が起こった。いままで、計数管理はホワイトカラーの人海戦術で行っていたが、これをネットワーク化したコンピュータで置き換えられるようになった。コンピュータの持つ情報処理能力の高さは、単に管理集計するだけではなく、そのデータを元に各種シミュレーションを行い、将来予測を行う余力ももたらした。これとともに、過去の延長上で予測可能な経営上のファクターは、全てオプティマイズ可能になった。こうなると、いままでやってみなくてはワカらないと思われていた最適化は、できて当り前のものとなる。この部分ではもはや無駄はできず、最適化を実現した企業・組織しか生き残れないことになる。それとともに、社内におけるホワイトカラーの役割も変わった。事務処理をする人間は不要となり、付加価値を出す人間だけが必要とされるようになった。

まさに、「組織の時代から、人間の時代へ」の転換である。組織でできたことは、コンピュータネットワークでできる。こういう時代に人間に求められるのは、コンピュータが得意とする情報の整理整頓の部分ではなく、無から有を生み出す、クリエーティブな発想を生み出すことだ。これは、シャノンの情報理論や情報エントロピー論を引くまでもなく、機械では永遠に対応不可能な領域だからだ。21世紀型の経営も、まさにこのパラダイムの上に乗っている。そのような創造的な人間集団としての企業を、人間として統率してゆく。そのためには、経営者が自らの力で、企業の進むべき道を切り開くコトが求められる。外部には、参考にする事例も、マネするべき先達もいない。当然、エネルギーの大部分を、自分の進む道そのものを作ることに賭ける。元来、経営とはこういう孤独でクリエーティブなものなのだ。

経営者が変わらなくてはならないのと同様、企業も当然変わらなくてはならない。そのためには、事業構造の再構築が不可避となる。本来、事業のモチベーション(現場メリット)と資本のモチベーション(経営メリット)は、本質的に対立する。現場感覚で経営ができた、高度成長期の蜜月が例外なのだ。現場とは、自律的に自己再生をしながら拡大したがるものだ。しかしそれを無制限に許したのでは、止まることなく非効率なまでに肥大化し、ポートフォリオのバランスは悪化する方向に向かう。経営の求めるポートフォリオの最適化は、現場の切り捨て・再編をともない、現場のエゴとぶつかることになる。この矛盾は、ニッチなスキ間が常に生まれ大きかった時代では、ゆらぎや誤差の中で曖昧にされてきた。しかし、経営の最適化が可能になると見逃せない問題となった。

これがもたらすものは、いわゆる「垂直統合」の崩壊だ。垂直統合は、売上やシェアをひたすら求めた「成長主義の時代」にこそふさわしいポリシーだ。垂直統合を進めていくと、確かに売上やシェアは伸びる。しかし、効率分岐点を越えても自己目的的にコンッェルン化が進むため、売上を最大化しようとすればするほど、効率の悪い機能を中に抱え込むことになる。当然付加価値生産と言う意味ではメリットのない、ノンコアコンピタンスの人材や経営資源も、組織内に抱えることになる。そればかりでなく、ポートフォリオという視点からすれば、本来持たなくてもいい機能まで抱え込みやすい。垂直統合を目指すということ方向性自体の中に、このような非効率性が内在している。

これに代わって、利益主義、付加価値主義の時代になると、「水平統合」が重要になる。これは、利益という視点からは「シナジー」には意味がないからだ。付加価値主義では、強いものはどうやっても強い。弱いものを組合せて規模を拡大し、いくら束になって対抗しても、付加価値は生まれないし、利益も生み出さない。そうなると当然「コアコンピタンス総取り」という発想が生まれる。強いところをより強くし、その部分だけで極度な部分最適を行い、一人勝ちによる総取りを目指す戦略だ。当然No1だけが生き残る。というより、No2以下は、余りに効率が悪く、バカバカしくて取り組む意味がなくなるというのが適切かもしれない。

これからはシナジーは禁句。コア・コンピタンスへの経営リソースの集中があるのみだ・21世紀を目指す構造改革の基本はここにある。そのためには、現有資源の中でも、コアコンピタンス以外のリソースは、必要なものであっても負の資源として切り捨てる必要がある。切り捨てた領域については、外部でその領域を強みとしているところと組むことで、アウトソーシング・アライアンスを図り、リソースを組みなおす必要がある。その場合も、自らのコアコンピタンスを磨いた、強いところを持っている「プロ企業」は引く手あまたであり、強い相手と自在にアライアンスが組める。一方、何も強みのない企業は、アライアンスを組みたくても誰からも相手にされなくなる。これが負け組の本質だ。このように21世紀経営のキーワードは、「餅は餅屋」というところにある。強いところに特化する。これはこれからの人間の生きかたであるとともに、企業のあり方でもある。



(00/09/08)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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