コングロマリット・ディスカウント






証券業界の用語で、コングロマリット・ディスカウントというのがある。強い部門も、弱い部門もまぜこぜに保有している企業は、その戦略性のなさから、計算上の企業価値より、実際の評価が低くなるというものだ。確かに古典的な指標である収益性で見ても、強い部門の市場に弾力性があるなら、そこに逸失利益があるわけで、もっともうかるはずなのに、という構造的問題はちょっと考えてみればすぐにわかる。これが隠蔽されてきたのは、経済が右肩上りで、全体の売上が経済成長に乗ってあるペースで進んでいればそれでよしとしてきた、市場の評価の甘さによる。競争して拡大するまでもなく、成長に乗っていれば拡大ができた。その甘い環境があってこそ許されてきたワザだ。

競争こそ、適正な配分をもたらすための最良の手段だ。すべての変数が青天井なら、何も考える必要はないし、戦略もいらない。基本的にリソースが有限であるからこそ、その限られたリソースをどう配分するかが、結果を大きく左右する。効果を上げるためには戦略的投下は必須だ。そのためには「選択と集中」を図ることがカギとなる。競争である以上、勝たなくてはいけない。勝つためには、勝てる可能性のあるところと、可能性の薄いところを見極め、薄いところを切り捨てるとともに、可能性のあるところで勝つためにあらん限りのリソースを集中する必要がある。

なつかしいコトバだが「神の見えざる手」の効用がここに生まれる。それぞれのプレーヤーが、勝つ可能性の高いところにリソースを集中させれば、各プレーヤーの個性が異なる以上、同じドメインで無用な競争を引き起こす可能性は低くなる。これは当然、ムダなリソースの投下を押さえる働きがある。特に今日のように情報化が進み、計画の最適化を図り得る基盤ができ上がったことを前提に考えるならば、無用なコンフリクトはかなりの確率で回避することができる。これは結果的に省エネ、省資源につながるとともに、意味のないダンピングを防ぐ分、商品やサービスの質の向上をも生む。

コングロマリット・ディスカウントの本質は、その企業がこういうビジネスマーケットの構造変化に戦略的に気付いているかを示しているところにある。たとえば100資金があったとして、これをそういう事業部門があるからといって、強い部門に50、弱い部門に50と配分したのでは、せっかくのチャンスを逃すだけでなく、手持ちの資金をみすみすドブに捨ててしまうことも意味し、ダブルで損失を被ることになる。弱い部門を切り捨て、強い部門に100配分してこそ、勝ち目はある。それだけでなく、悪平等に浸った企業では、社内競争力が働かないため、相対優位の部門はあっても、実は強い部門がないということも多い。こうなってしまってはおしまいだ。

実は今の社会においては、企業という形態が、社会システムの中でもっとも先進的で機能的なあり方を先取りして示している。これは企業が競争原理が常に働き、常に勝ち続けない限り生き残れないという、市場原理の永久トーナメント状態におかれているためだ。ここではどんな場合でも実力が問われ、その底力を発揮した勝負の結果で評価される。組織論としても、頭数割りで質を問わない「民主主義の悪平等」はここにはない。全責任を負うトップのリーダシップの良し悪しが、即結果に反映する。かじ取りが悪ければ、たちどころにブーイング。マーケットの支持は一瞬にして失われる。企業内の多数が望んでいなくても、結果オーライなら正解は正解。企業内の多数が支持したとしても、結果が出なければそれは間違い。

この原理は、これからの人間社会のすべてに共通の原理を先取りしている。いや、厳密にいえば元来人間社会とはそういう構造であり、自然界同様、弱肉強食のサバイバルレースが行われるのが基本だった。それが、産業革命以降の工業社会の高度成長により、競争より早く市場が拡大したため、一時的に歪んでいたに過ぎない。当然競争原理は、人間社会のすべての要素に働く。個人の生きかたもそうだし、国家のアイデンティティーもそうだ。これらすべてにコングロマリット・ディスカウントが起こって当然なのだ。

人間のコングロマリット・ディスカウントは、秀才型優等生の終焉としてあらわれる。何でもほどほどそつなくこなすという八方美人のジェネラリストは、工業社会では引っ張りだこだった。それは人間性が求められたのではなく、情報処理システムの部品としての「人間」が求められたからに過ぎない。しかしそういう人間は、コンピュータシステムでいくらでも置き換えられる。八方美人ということは、なにも特徴がないということと同義なのだ。これに対し、これからはある分野では間違いなくナンバーワンという「一芸名人」が求められる。

まさに余人を持って代え難い、固有名詞で語られる個性が必要なのだ。天賦の才能があるだけ勝負できるような、イージーな競争はもはやない。ましてや才能がないのに努力だけでなんとかなる領域など存在しない。天賦の才能を持った人材が、強みのある領域で人一倍努力してこそ、ナンバーワンの能力は生まれる。このためには、まさに企業と同じように、ある分野にリソースを集中させ、戦略的に才能を伸ばす努力が必要となる。

同じように、世界の中で国や民族がアイデンティティーを主張するにも、個性ある強みへの特化が必要となる。あらゆる分野でそこそこのレベルを持っていても、ナンバーワンの領域を持たない国では、次々と競争力を失うか、世界から見向きもされなくなるのがオチだ。まさに水平統合から垂直統合への変化として、企業で起こったような強味への集中化が、こういうレベルでの必要になる。いわば国家のコングロマリット・ディスカウント。強さの一点豪華主義は、競争上も、安全保証上も有利だ。その国がなくなってしまえば、世界経済が成り立たなくなるような「総取り」をしている分野が一つでもあれば、国そのものは小さくても、世界が一目おくはずだ。

このように、規模の持つ価値は大きく変わった。大きいことがいいことである時代は、工業社会特有のものだ。個人でも組織でも、人間の営みが関わる以上、小粒でもキラりと光るナンバーワンの要素を持つこと。これが何よりも求められている。これはパラダイムシフトだが、なにも難しいことではない。あれもこれもほどほどに、を本格的に狙うには、かなりの部分で「骨折り損のくたびれ儲け」を覚悟する必要がある。それを考えれば、きちんと自分の優位性が生きる領域を見極められさえすればいいのだから、かえって楽ともいえる。まさに効率性を追及する世の中は、当人にとってもこういう効率性というメリットをちゃんと返してくれるのだから。


(00/09/22)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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