自己完結
そもそも世の中には、二つの類型の人間しかいない。一つのタイプは、一人で生きてゆける人間。もう一つのタイプは、人に頼ってしか生きて行けない人間だ。まあ、自分の人生をどう生きるかなんて、基本的には個人の自由なので、その選択自体がどうこうというつもりはない。問題は、社会を動かすダイナミクスやエネルギーの源足り得る人材は、一人で生きてゆけるタイプの人間からしかでてこないことだ。そして、今日本社会が直面している問題の多くは、人に頼ってしか生きてゆけない人間があまりに多いがゆえに引き起こされているのだ。
もちろん、「一人で生きてゆける」とはいってもそれぞれ程度の問題はある。完全に自己完結してしまうほど、莫大なエネルギーを振りまいて生きているヒトもいれば、他人から得るものよりは、自分が与えるもののほうが相対的に多く、全体としては「出超」を保っているというヒトもいるだろう。どちらにしろ、社会から得ているものよりは、社会に与えているもののほうが常に上回っている点が特徴だ。そういう意味では、それなりにヒトに振りまいているものがあるが、結果的に「入超」になっているのなら、それなりに「努力賞」というか、同情できないこともない。
問題なのは、そういう具合に「小さくてもいいから自己完結しよう」という努力をしない人達だ。小さいレベルで一人で生きていくべく、それなりの努力をしようとすることもない人達。最初から「寄らば大樹の影」で、自分はエネルギーを出すことなく、完全に寄生化してしまおうと思っている人達。実は、アメリカと日本の社会の一番大きな違いは、ここにあるのではないか。意外かもしれないが、大きく人を引っ張ってゆく人間の数は、そんなには違わないと思う。違うのが、ハナから組織にぶる下がって行こうと考えている、他力本願の人間の数が多すぎる点だ。
この差が顕著にあらわれたのは、80年代から90年代にかけてのアメリカのリストラ・ブームだろう。今はこの世の栄華を謳歌している感のあるアメリカ経済だが、80年代は競争力を失い、低迷の極みにあった。それが一気に好転したのは、IT化の進展だとよくいわれるが、それはある一面に過ぎない。構造変化の本質は、生産性の低いホワイトカラー層を、徹底的にリストラできたからに他ならない。アメリカでもかつてはホワイトカラーとして、組織にぶる下がるだけの人間も多かった。彼らは、一気にリストラされた。リストラされても、自分なりの生きる道を見つけられたから、ハードランディングにならずに、それなりに落としどころがあった。
自分で生きてゆくことの大事さを知り、小さくても自己完結した生きかたを見つけることを躊躇しない人が多かったからこそ、リストラクチャリングは成功した。組織頼りで甘くのほほんと生きてきたが、給料は下がっても、自分らしく生きられる生きかたがあればそれもまた人生と考えられるか。こういう精神基盤が合ったからこそ、アメリカ経済は再生した。そもそもIT化のポイントは、ぶる下がるだけのタイプの人間を、機械で置き換えることにある。もともと付加価値を生み出してはいない社員なので、これを機械化・システム化できれば、コストリダクションのメリットは大きい。その成功のカギは、リストラされる面々に、組織の甘い利権を離れる意欲があるかどうかにかかっている。
自己完結した、クリエーティビティーを生み出す人間は、社会を配電システムにたとえれば、発電所の原子炉やボイラーのようなものだ。社会のすべての活力がここから生まれている。その他の人材は、旧来型の組織においては、エネルギーの生産者ではなく消費者に過ぎない。同じく配電システムにたとえれば、変電所や送電線のようなものだ。システムとしては必要だが、そこで必ずエネルギーロスが起こる。こうなると場合によっては、ロスのほうが大きくなる。旧式の設備や、老朽化した機材等だと、たとえば水道の水漏れのように、そのロスのほうが、得られる効果よりも大きくなることも少なくない。
確かに大きなクリエーティビティーを活かすには、一人ですべてをこなすのは難しい。作業を手伝う手下が必要になるし、チームワークでタスクをこなすことが必要になる。だか規模と効率との間には、ある種のトレードオフの関係がある。チームが大きくなると、それ以上のスピードでチームにぶる下がるだけの人が増殖するのは必然だ。実際の電力でも、発電の分散化が進んでいる。そのほうがロスが少なく効率がいいからだ。社会も、同じように一部の人間だけにエネルギーの生産を頼るのではなく、小さくてもバランスしたコミュニティーの積み重ねにより構成されるようにすべきだろう。
では、IT化時代の理想的な組織のあり方とはどういうものだろうか。それは、違うコンピタンスを持つ人間が集まる、小粒で弾力性のあるチームということができる。すべてのアイディアやクリエーティビティーを一人の人間に頼るのではなく、能力の「選択と集中」を図ることで、時間当たりに生み出す付加価値を最大化する。優れたタレントプロダクションでは、タレントの才能や人気におぶさることなく、タレントとマネージャー、それに演出等の専門スタッフ等、それぞれの領域で高い能力を生み出せる人を組合せ、相互に補い合い、力の相乗効果を生みだしている。これからはこういうプロだけによる組織が必要となる。
いままでの日本社会、高度成長期の日本社会にどっぷり浸り切ったヒトには、こういう組織で発揮すべき能力そのものが退化してしまっているかもしれない。しかしそれは仕方がない。自業自得というもの。いままで努力せず、甘い汁に浸り切ってきたバチが当たったまでのことだ。どこまでが生き延びられ、どこからが切り捨てられるかやってみなくてはわからない。それだけに気持ちを切り替えて、自分でエネルギーをできる限り生み出す努力を行い、できる限り自己完結した生きかたを目指せば、それなりに救われるだろう。少なくとも、この意味では構造変革が始まった時期のアメリカ人と、状況はそうは変わらないはずだ。違うのは、一人一人の心の内側。問題はそっちにあるのだ。
(00/09/29)
(c)2000 FUJII Yoshihiko
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