プロフェッショナリティー





これからはプロフェッショナルの時代だとよく言われる。ぼく自身も、この言葉は何度も語っている。しかし、「本当のプロとは何か」がよくわかっていない人が多い状況の中で、このコトバだけ独り歩きしてしまうのも危険だ。というより、本当のプロたる条件がわかっていないからこそ、「プロフェッショナルにならなくてはいけない」と強調する必要がある、というほうが正しいだろう。こういう状況では、ただ「プロになれ」といったところで何も始まらない。

日本では、単なる手先の職人をもって「プロ」としてしまう傾向が、あまりに強い。それは、手先が器用で小技がきけば、それだけで喰えてしまった過去の経緯によるのだろう。しかし、もはやそういう世の中ではない。にもかかわらず、過去の「プロ感」から抜け出られないところに問題がある。物理的に製作できることと、モノを創り出せることは全く違う。今や「モノを作る」とは、単なる製造ではなく、創作でなくてはならない。この事実を認識しているか否かが、過去のプロと今のプロをわけているとも言える。

いろいろな現象が、この分岐点を通して見えてくる。たとえば、少し前に流行った、「勝ち組」企業と「負け組」企業の違いも、根っこはここにある。典型的な業界である、自動車業界を見てみよう。かつてトップを争ったトヨタと日産、同じく3位を争った本田と三菱は、70年代まではそれぞれのポジションでタメを張っていたことが思い起こされる。しかしいまではそれぞれのポジションでの、勝ち組と負け組のペアである。これはその企業が、モノを作る上でのプロフェッショナリティーを持つことができたかどうかの違いでもある。

過去の歴史からもわかるように、物理的にモノを作る能力だけでくらべれば、それぞれのペアは遜色はないし、場合によっては、「技術力」を標榜していた日産や三菱のほうがすぐれていた点も多かったかもしれない。製造技術ということだけでいえば、日産は間違いなくトヨタの設計に基づいた車をOEM供給できるし、三菱はホンダ車をOEM製造できるだろう。しかし、それではモノを作ったことにならない。だからこそ、負け組になる。つまり、物理的な製造能力だけではモノ作りのプロたりえなかったということだ。

このように、手先だけではモノは作れない時代になっている。売れるためにはなにより、付加価値があることが求められる。プロとは売れるものを作れる能力であるとするなら、それは取りも直さず「付加価値を生み出せる能力」と規定される時代になっている。それは商品が単なる機能だけでは評価されず、作品としての価値をもっていなくては売れない時代になってきたからだ。モノ作りは単なる作業ではなく、知的生産のプロセスになっている。かつては手先が器用でモノを作れる人間が「プロ」だったのが、もう一つ上のレイヤーで、魅力あるものを企画できてはじめて「プロ」たりうる。

ひるがえって、アートやスポーツといった、本来、属人的な個性としての能力が大きくモノを言う分野について考えてみよう。ここでも同様の問題が根深く尾を引いている。そしてそれが日本では、相当に大きな構造的問題となっている。これらの分野では、プロとしての育成プロセスや評価が、オリジナリティーや個性という面ではなく、技術、器用さのほうにかなり寄っている。属人的な能力、余人をもって代えがたい能力での評価ではなく、定量的に共通の尺度で図りうる技能での評価が基準となってしまってる。これが、いろいろな面でボトルネックとなっている。

たとえばクラシックの音楽家。もちろん日本出身の世界的プレーヤーもいるが、音楽教育を受けている人数からすると、その数は限られている。もっと音楽人口が少ないにもかかわらず、より多くの世界クラスのプレーヤーを輩出している国はいくらでもある。それは、日本のクラシック界、特に音楽教育界の構造的問題だ。音楽学校のカリキュラムが技術教育によりすぎて、表現力や、その前提となる個性を育てる視点がおろそかになっている。初等・中等教育の音楽の教員養成ということなら、それでいいのかもしれないが、それはいわゆるレッスンプロ。本当のプロのプレーヤーとはいえない。

スポーツの問題もおなじだ。少なくとも高度成長期以降に育った年代なら、身体機能、運動能力は充分なものがある。しかし練習ではいい線いっていても、世界の大舞台となると一転して勝てない選手が多い。ハングリー精神やマインドコントロールなど、精神性問題に帰する論者も多いが、そんな単純なハナシではない。勝ちに行かなくては勝てないのが、世界レベルのスポーツだ。しかし、日本のスポーツ選手の養成が、あまりに「スポーツ技術」により過ぎている。「勝つための戦略を組み立てるノウハウ」をどう育てるか、という視点がかけてしまっている。これでは、「プロのスポーツ選手」を育てることはできない。

ここまで拡げて考えると、実はアートやスポーツの領域での「プロフェッショナリティー」と、物理的製造能力しか持っていないか、もっとレベルの高い付加価値を生み出すアイディアまで持っているか、という製造業の「プロフェッショナリティー」とは、人間力という視点で見れば、おなじルーツを持っていることがわかる。プロとは、「自分ならではの土俵を持ち、そこでは他を寄せつけずNo1の座をキープできる人」のことなのだ。そう考えてみると、いかに日本人にはプロと呼べる人材が少ないかわかるだろう。

とはいうものの、新しい価値観への対応という視点では、企業のほうが変化は速いだろう。ストック・マーケットも、コンシューマ・マーケットも、今やグローバルベース。個性あふれる付加価値を打ち出さなくては、商売が成り立たなくなっている。喰えなくなっては、背に腹はかえられない。これが、市場原理のいいところだ。かえって、象牙の塔のようなアカデミックな権威や、旧態依然とした徒弟制的な制度、競争原理の入らない癒着した人間関係といった、古い構造がのこりやすい、アートやスポーツの分野のほうが改革が必要なのかもしれない。

妥協とバランス取りがうまい人間、つまり悪い意味でのゼネラリストが、それだけでプロたりうる時代は終わった。そういう「心づかい」が全く無意味とは言わないが、それだけで世渡りできる世の中ではもうない。それだけに、本当に才能を持った人間も、そういった些末な事柄に腐心しなくてはならないような本末転倒な事態は、リソースのムダ使いでしかない。早く、こんな資源のムダ使いはやめるべきだ。この能力をポジティブなほうに使えば、まだまだ可能性は大きいはずだ。

本来なら、「次の時代に価値を生む能力を育てよう」といいたいのだが、それ以前の問題が山積しているというのは悲しい限りだ。しかし、そこから手をつけなくては未来が拡がらない。ここが、今の日本の辛いところでもある。だが、だからといって手をこまねいていたのでは、じり貧になるだけ。動かなきゃ、ヤバい。変わらなきゃヤバい。ひとりひとりがそう思ってはじめて、何かが変わる。みちは遠いけど、座して死を待つのはあまりに寂しいぞ。


(00/10/13)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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