コア・コンピタンスと形式知






「選択と集中」は、すっかり経営のキーワードとなった感がある。強いところをより強くする経営。コア・コンピタンス重視の経営。特定のレイヤーに特化することで、その分野の総取りを狙う「水平統合」が、21世紀型の経営戦略の基本となった。それとともに、利権と許認可に支えられた、コングロマリット型の「垂直統合」の時代は終わった。異種の業態をかかえることは、異種のリソースをかかえ、異種の管理を行うことが前提になる。コスト面で考えれば、これは大きなムダだ。おなじ追加投資をしても、おなじレイヤーなら、投資分を即、直接的リターンのある分野に廻すことが可能だ。しかし、上流・下流への進出だと、間接コストが発生するうえに、異分野で使いまわしがきかないため、リソースの弾力的運用も難しくなる。

もちろん全てが最強であり、各レイヤーで圧倒的な強みを持っている企業があれば、ある種垂直統合的にことなるレイヤーをクロスオーバーして事業を行うことも、理論的には不可能ではない。しかしそれは単なる垂直統合ではなく、水平統合により各レイヤーでの圧倒的強みを得たプレイヤーが、レイヤーを越えて連合したものと見たほうがいい。だが実際には、レイヤーが違えば利益構造もビジネスモデルも違ってしまうため、それらを一つの企業でやるよりは、別の事業体としたほうが機能的であり、そうだとするならば、これはよくあるwin-winアライアンスを、一つの持株会社機能の下に統合したものということになってしまうだろう。

利益意識が高まり、その源泉としてのコスト・マネジメントが重要になったからこそ、コア・コンピタンスが重視されるようになったということができる。コア・コンピタンスへの特化は、ムダなコストを排したスリムな経営体質になるとともに、より高い付加価値により大きな利益が見込めるビジネスモデルへの転化をもたらす。同時に二重の意味でプラスメリットを生み出す。そういう意味では、単なるコストダウンのための機能ではなく、利益の源泉としての付加価値を生み出す可能性のある能力しか、コア・コンピタンスたりうる可能性はないということもできる。

コア・コンピタンスへの集中は、付加価値の生産力へのリソースの集中といいかえることもできる。付加価値は、発想力の豊かな人間の中からしか出てこない。コア・コンピタンスを育成し、活性化するためには、オリジナリティー・クリエーティビティーのある人間をどれだけかかえられるかが、ポイントになる。まさに人間力の勝負になる。それは、形式知化できるものは、コア・コンピタンスたりえないからだ。形式知は、あくまでもボトムアップの道具にすぎない。コストリダクションはできても、付加価値はそこからは生み出せない。それは形式知化の典型例が、英語がしゃべれず、知能もおとる兵隊でも、一定レベルの戦力に仕立て上げることのできる「米軍のマニュアル」であることからもわかるだろう。

形式知は、まさに形式化されているがゆえに、金さえ払えば導入可能だ。その情報やノウハウが、ユニークなものではなく、汎用性があり、共用性があるからこそ、形式化する意味がある。形式化するコストを払っても、その後の「マルチユース」により充分もとを取れるからだ。それは取りも直さず、形式知化できるものでは、差別化や付加価値生産のためのキーポイントたりえないことを示している。形式知はあくまでも、手段や道具。ビジネス上の本質ではない。場合によっては、アウトソーシングも可能な領域だ。

おまけに、マニュアルとして人間系にとりいれるのみならず、形式知化したものはシステム化も可能になる。情報はデータベースそのものだし、ノウハウはアプリケーションそのものだ。今さかんに言われている、ITによる経営革命のポイントはここにある。いままで人間系でやっていたものの、何も付加価値を生み出していない「事務処理」的な作業を形式知化し、機械化することで、付加価値を生み出す分野にのみ、ヒューマンリソースを集中させる。IT化の裏側では、人間の仕事はコア・コンピタンスで付加価値を生み出すこと、という暗黙の条件がつけられているともいえる。

一方、スケールメリット的なものをコア・コンピタンスとはきちがえている場合も多い。特に装置産業的な巨大な資本を前提とした産業にその傾向が強い。それは、参入障壁があるというだけで、本質的な付加価値上の優位性があるわけではない。巨大な資金力を持った者が、無謀にも競争を挑めば、優位性が崩れることも多い。たとえば、アメリカの通信インフラビジネスを見てみれば、ちょっと前までのITバブルにのって、巨大な資金が容易に調達できたため、次々と新規参入がつづいていたことを見て取れる。

すなわち、付加価値を生み出すカギとなる要素こそ、暗黙知の最たるものといえる。それは、無から湧き出るアイディアだからだ。その瞬間、その人のアタマの中からしか出てこない。そのプロセスには再現性はないし、代替性もない。だからこそ付加価値たりうるのだ。形式知化したマニュアルや、それをIT化したサポートシステムは、全てこのアイディアを生むためのプロセスに、リソースをより多く割けるようにする手段に過ぎない。選択と集中するのはいいが、そのポイントは付加価値たりうる強みかどうかにある。これをはきちがえてはどんな努力も無意味と化してしまうのだが、なんか意図してかせずにか、はきちがえたままのひとがあまりに多いような気がするのだが。


(00/10/20)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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