自立した「個」






日本人を批判するコトバに、「集団主義」というフレーズがある。しかし人間という生物自体、社会組織を発達させ、集団行動で目的を効率的に達成できるところが特徴となっているように、集団だから即いけないということにはならない。そういう意味では、人間社会にとってマイナスな集団を作りたがるからこそ問題となるのだ。それより、どういう集団がポジティブで、どういう集団がネガティブかということ自体、日本人にとっては識別不可能なくらい、無意識的に問題のある集団構造をとってしまうところが構造的な問題点とさえ言える。

結論からいってしまえば、人類にとってポジティブな集団とは、「自立した「個」が、目的意識をもってあつまる集団」のことだ。その一方で「『個』を確立できない甘えん坊がじゃれあう烏合の衆」こそ、ネガティブな集団ということができる。「頭数をそろえた人間の集まり」という意味ではこの両者はおなじでも、組織という意味では全然違う。そして、日本の集団の多くは後者の烏合の衆の域を出ていない。はっきりいってしまえば、日本という国とか、日本人とかいう集団自体も、こういう烏合の衆以上のものではない。

日本の組織は、そのほとんどが「集団の中でしか生きていけない人間が、群れて傷をなめ合うためにできた組織」にすぎない。欧米でもアジアでも、組織のグローバルスタンダードである「ひとりでも生きてゆける基盤を持った人間が、ひとりではできない高度な目標を達成するために集合した組織」とは大きくかけ離れている。この違いは、組織構造にあるのではなく、組織の構成員のマインドにある。構成員が個人としての自立した人格を持っていれば、グローバルスタンダードの組織になる。しかし、個人が確立せず、外部のささえに依存しなくては人格を持ちえないヒトたちの集団では「烏合の衆」になってしまう。

すなわち、ポジティブな集団原理を作れるかどうかは、その構成員に人格としての「個」が確立し、集団がなくても自立していけるかどうかにかかっている。それには、自律的な「自己アイデンティティー」を確立していることが鍵になる。「他人の目」を意識しないでも、自分が自分でいられるかどうか。自分ひとりでも、自分の居場所、立脚点をきちんと把握し認識できる人間となることから全てがはじまる。「誰々がこうやっているから、こう思っているから、私も」という相対基準ではなく、「他人が何を言おうと、どう思おうと、自分はこれ」という絶対基準を持っていることが必要だ。あくまでも自分の満足は、自分の中にある基準に基づいている。

実は、このような「自己アイデンティティー」を持つことができず、他人の視線や評価に自分の基準を求める「他己アイデンティティー」に依存してしまうところに、日本人や日本社会の問題がある。とにかく自立していない。よく言われる「甘え」の構造だ。それを許してきてしまったところに、日本の不幸がある。元来、自分の身の安全は、自己責任でまもらなくてはならない。しかし日本人は何か起きると、治安の悪いせいにする。向上心を持たない人間には、元来、チャンスはめぐってこない。しかし日本人は「平等でない」と文句をいい、既得権利の主張に汲々とする。全くこまった限りである。

基本的に、他己アイデンティティーは楽だ。何でも他人まかせ、他人に責任転嫁していればいい。だから、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」とばかりに、誰も責任を取らなくなり「みんなと同じなら、何をしてもいい」ということになる。日本人の特性といわれる、「旅の恥はかき捨て」とばかりに、匿名になると突然「無責任で傲慢」になるところも、この習性のなせるワザだ。そして、こういう行動をくりかえしていると、モラルは低きに流れることになる。心のエントロピーは極大化。道徳心はケイオス状態ということになる。

考えてみれば、日本社会で起きている問題の多くが、この習性に端を発している。周りの目を過剰に気にする。隣が持ってるから、やってるから自分も、という行動様式。みんなやってれば、モラルも何もありゃしない。その一方で、出るくぎを打ちたがる、イジメ・差別体質も根強い。まるで他人を見下すことによってのみ、自分の傷がいえるかのごときだ。どちらにしろ、集団と自己の同化を図るベクトルが強く働いている点が特徴だ。それはとりもなおさず、集団からはなれて自分のアイデンティティーを持ちえないことに起因する。動物園で育った動物は、野生に戻って自分で餌を捕ることができないのとどこか似ている。

他己アイデンティティーは「遺伝」する。遺伝というコトバの妥当性はさておき、親から子へうけつがれるものであることは確かだ。よく教育に期待する人がいる。自分が達成できなかった夢や可能性を子供に託すべく、子供の教育に期待する。しかし、これじゃダメ。何の解決にもならない。自分が努力することなく、子供に期待するというのは、子供という「他人」に責任を負わせていることであり、他人頼りといういみでは、まさに日本人の悪いところ。これの繰り返しだから変わらない。そもそも、子供に期待するより以前に、自分自身が向上し、手本を見せることが先だ。

他人に期待する前に、まず自分が規範を示す。他人に責任を負いかぶせる前に、まず自分で責任を取る。自分で考え、自分で処理する自発性がなくては、自分という個人が生きている意味はない。もちろん、それを実行し、常に自分を保つには、ものスゴいエネルギーがいる。ほっておけば、ついつい安易になってくる。だからこそ、それをやりつづける人間は尊いのだ。自分を律することなくしては、自己アイデンティティーは保てない。その努力をしてはじめて、存在感も発言権も、あらゆる存在の証明が担保されるのだ。


(00/10/27)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる