これからのソリューション






いつの世の中でも、降りかかる問題に対するソリューションの提供は常に求められつづけてきたテーマだ。世の中には、今までの経験の組合せで解決できる問題と、今までになかった解決策を創造しなければ解決できない問題がある。数からいえば、今までの経験で解決可能な問題のほうが圧倒的に多い。だからこそ、かつては問題の解決といえば、前者のような解決がイメージされることが多かった。しかし前者は、実は誰でも答が出せる問題だ。それだけに、人海戦術で答だけは出せる仕組みを持つことが求められた。このためには、知識や経験のリプロダクションがカギとなる。

そもそも世の中ので行われている学問や教育は、この目的意識に基づいている。近代の学問や教育は、完全にこの課題に対しオプティマイズしたものといってもいいだろう。問題の発生源の近くにできるだけ多くの知識と経験を持った人間を張りつけていれば、迅速な解決を図ることが可能だ。そのために、人々の間での知識や経験の共有を目的として作られたシステムが近代の教育である。人類の歴史のおいて知識の集約や体系化は、「知識を扱う機械」が存在しなかったがゆえに、人間の独壇場だった。学問はそのために知識を集め、理論化・体系化を図るものだった。そして「学識経験者」は、その道の大家として、尊敬をあつめた。

しかし今では、情報を扱える機械であるコンピュータが生まれた。そしてそれは、いともカンタンに取り扱えるものとなった。こうなると誰でもというより、機械でも答が出せる。ネットワーク化により、どんな知識、どんな情報も、瞬時にして集められるようになった。知識の組合せ、過去の事例だけで答になるような問題なら、コンピュータシステムで解決可能になった。このような領域では、答を出し解決すること自体が、コモディティー化したということができる。そのためのシステムだった近代教育が意味を失っているのも、いわば当然の成り行きである。

かつての工業社会においては、生産システム自体、リプロダクションによるマスプロダクションがそのベースにあった。それが社会のベースとなっているのこともあり、世の中の問題のほとんどが、このような「知識・経験で解決可能な問題」だったということもできる。問題解決、ソリューションの提供とは、そういう知識や経験の多寡が問われる問題と勘違いしても致し方ない状況があった。しかし、それは本質ではない。その時代でも本質的な問題がなかったワケではないが、これは逆に根本的な解決を図らずとも、右肩上がりの成長ベースの中で、いくらでも先送りが可能だと信じられていた。

かくて、世の中で問題にされるのは、「雑魚」レベルの課題だけとなってしまった。だれも本質的な問題を解決しようとはしなくなった。その一方で、そういう「雑魚」な問題は機械で解決可能になった。他方で、時代が変化し、本質的な問題の先送りは不可能になった。既存の手法では解決しえない問題に対し、抜本的なソリューションを提示する必要が生まれた。そのためには、知識や経験は無力だ。本質的な解決策は、知恵や想像力という「知的能力」を駆使し、何もないところから生み出すほかはない。一度使った解決策は、基本的には二度とつかえないし、そもそも相手が違えば、おなじワザが効くワケがないからだ。

今企業が行き詰まっている。それは今問われている経営の問題が、ほとんどこの領域に属するものであり、従来型の経営者がそのより所としてきた知識や経験は、全く歯が立たないものだからだ。今までの自分の延長上ではなく、常に自己否定を繰り返し、新しい状況を自ら切り開いてゆかねば、解決しない問題ばかり。今までの工業社会の時代のアタマでは、そもそも対応できない社会構造に変化してしまった。そして、単に問題の構造を指摘できるという、評論家でもだめ。批評や分析をいくらしても、具体的なソリューション策に落とし込み、それを自ら実行しなくては絵に描いた餅だからだ。

人間として必要とされる能力の次元が変わってしまった。産業社会から情報社会へ。産業革命で世の中の道理が変わってしまったように、いままたルールそのものが変わろうとしている。誰でも対応できる能力ではなく、選ばれた人材しか持ちえない能力をからしか、解決策は生まれない。これは才能の問題だ。努力や根性でどうにかなる問題ではない。そういう能力、そういう才能がある人間を、適材適所に用いない限り、解決のしようがない。今までの社会なら、平均的な人間でも努力しだいでそこそこのポジションを果たせたかもしれない。しかし従来型の人間では、リーダーシップは取れなくなった。答が出せないものでは、リーダーシップの取りようがないからだ。

唄を唄って人を感動させられる。これが、限られた人間にだけ与えられた天賦の才能のなせるワザであることは、異論をさしはさまないだろう。ソリューションの提供も、これと同じなのだ。無から有を創り出す「クリエーティブな才能」を持って生まれた人間が、それを行かすための最大限の努力をしてはじめて対応できる。人間の所作は、芸術の域に達していなくては意味がない。そうでないものは全て機械で対応可能になる。これをきっちりをアタマに叩き込むとともに、全てこの視点から今まで人間がやってきたことを見直すこと。このステップを経ずして、次の時代へのパラダイムシフトは不可能だ。


(00/11/03)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる