明日の人間






今世紀もあとわずか。間もなく21世紀がほんとにやってくる。今年の大晦日が過ぎれば、21世紀の夜明けは誰にも等しくやってくる。でも、そのあと生き残れるかどうかは別問題。誰でもイージーに生きてゆけた、20世紀は歴史の中にさようなら。あのなつかしい、右肩上がりの産業社会はもう終わりなのだ。今後は、お祭りでお神輿を担がずとも、その周りにたむろしているだけで酒にありつけることを期待してはいけない。だからといって、今までのような意味で、能力の適正もものかわ、ひたすらがむしゃらに頑張って汗を流せば成果が得られるわけでもない。では、どういう人間になる必要があるのか。実はそれは誰にもわからない。鬼が出るか蛇が出るか。皆目見当がつかないのが21世紀流だ。

結局のところ、求められるコンピタンスは、その時になってみないとわからない。ただ言えることは、自分に素直であることが必要ということ。アタマで取り繕っても始まらない。自分でない自分をエミュレーションしても、ネイティブで対応できる人間との間では、反応にタイムラグができる。その差が致命的になるからだ。もしかして通用しないかもしれないが、反射的に対応することがなにより必要になる。そういう意味では、21世紀型人間に求められる要件を挙げるのは難しいが、21世紀に通用しなくなるタイプの人間というのはっきりしている。それがどんな人達か、ちょっと見てみよう。

まずは、アタマの固い人。こりゃダメだ。これからは誰もが認めているように、アイディアが付加価値となる時代。柔軟な発想力を持つことが、何よりも人間の価値を決める。決まり切った紋切り型の発想しかできないようでは、人間としての価値がない。それこそインターネットで、サーチエンジンを引いた結果のほうがバラエティーに富んでいるようでは、生身の人間をフィーチャーする意味がない。アタマが固いということは、それほど致命的なのだ。それでなくてもこういう人は、世の中が変わっているということ自体を認識できないかもしれない。あるものをあるがまま見る。これができなくては予選で失格だ。

次に、過去の成功体験から抜け出せない人。過去において数々の難局でソリューションを思いついたという自信なら、今後現れる難局に対し何らかのブレークスルーを創り出せる証明になるかもしれない。困難に立ち向かっても、落ちついていられるだろう。そういう意味では、成功体験を持つこと自体が悪いわけではない。悪いのは、かつて通用したやり方が、今後も通用すると思っていることだ。これからは、一度使った手は二度と通用しなくなる。それがアイディアの掟だ。今までのように、自ら二番煎じ、三番煎じができたことのほうが奇跡的といってもいいだろう。つまらないネタに固執していたのでは、お座敷がかからなくなるということだ。

一芸にオプティマイズし過ぎた人も危ない。特に職人的な芸。こういう人は、その芸がいつまでも通用すると思いがちだ。確かにそれが通用する間なら、何も問題がない。しかし世の中の変化は速い。昨日まで通用したものが、今日からは全く無意味になってしまうのがこれからのスピード感だ。特に付加価値創造性の低い芸は危ない。むかし写譜屋さんなどという仕事があった。アレンジしたスコアを、オーケストラのメンバーのパート毎に作る商売だ。かつては、専門的職能でそれなりに喰えた職人だった。これなんか、パソコンで譜面出力が容易にできるようになると、消えてしまった。こういうことがあらゆる局面で起きるのだ。

形式知な人も、もはや通用しない。これからは情報化社会。高度化したコンピュータネットワークを使えば、いままで人間系でしか処理できないと思われていた作業の多くが、機械でこなせる。ホワイトカラーの仕事の多くは、実はこのレベルの作業でしかない。システム化すれば機械でできること。マニュアル化すれば誰でもできること。こういうレベルの作業しかしていないのに、たいした仕事をしているような気になってにうつつを抜かしているようではヤバい。このポイントは、その作業が形式知化できるかどうかだ。形式知化できるということは、固有名詞を持つ人間がやる必要がないということ。そういう人を雇う必要などどこにもない。こういう仕事しかできない人間は、それこそ「コンピュータ以下」だ。

そうなると、マジメなだけの人も居場所がなくなる。過去の経験や知識がいくらあっても、それは資源ゴミが溜まっているようなもの。全く無価値とはならないだろうが、その価値は極めて低くなる。こつこつマジメに勉強して、知識をつけるという秀才型の人間は、残念ながら各分野でダントツの個性を持つ天才型の人間にはどうやっても勝てない。人間、誰でも個性はあり、どこかいいところはある。そこを伸ばしたほうが道は早い。努力してゼネラリストになったところで、活躍する場所はどこにもない。マジメ人間に居場所があったのは、定型処理を人間系で処理せざるをえなかったという、過去の事情によること。個性を活かさなくては生きてゆけなかった時代のほうが、人類にとっては長いのだ。

一方、自分が見えていない人も違う意味で危ない。自分の本当の姿が何で、自分の本当の個性がどこにあるのか、皆目わかっていない人も世の中には多い。きっと潜在的な能力はあるにしても、それに気付かない限り伸ばすことはできない。自分の本当の姿に目をつぶり、似ても似つかない自分になろうとする人。自分にそういう能力やセンスがないのに、その企業の名刺と肩書きが手に入れば、いろんなことができると勘違いをしている人。もしかすると、日本の社会はこういう人ばかりかもしれない。でも無知は罪ではない。知ればいい、気付けばいいのだ。タイミングさえ逸しなければ、まだ救いはあるかもしれない。

そして、これまた多いのだが、自分を偽っている人。本当の自分ではなく、企業や社会が求めている(と思いこんでいる)人間になろうとしているなら、早くやめたほうがいいだろう。全部が平均値、全部が普通の人間なんて本来はいない。そういう人がいるとすれば、それは自然な姿ではなく、アタマで作って演じているに過ぎない。そんな実体のない人間像から、クリエーティブなアイディアが湧くはずがない。そんな着ぐるみ人間では意味がない。早く脱ぎ捨てよう。とにかく、用済みの生きかたをしているのならスグにやめよう。まだ時間は間に合う。21世紀が来たからといって、1月1日からコロッと世の中が変わってしまうわけではないのだから。


(00/11/10)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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