ニセ石器






70万年前の前期旧石器時代の遺跡の発見として喧伝された、宮城県の上高森遺跡発見は、同遺跡の発掘団長をつとめていた、「東北旧石器文化研究所」の藤村前副理事長によるヤラセだった。こんなセンセーショナルな石器発掘ねつ造事件は、北海道の総進不動坂遺跡におけるねつ造と併せ、大きな話題になった。同前副理事長は国内の旧石器遺跡発掘のほとんどに関わっており、旧石器時代の遺跡発掘調査の信頼性そのものについても大きな疑問符がつけられる事態となった。

学界エスタブリッシュメントは、アマチュアの考古家ゆえの問題として切り捨て、自己保身を図っている。しかし、そんなトカゲの尻尾きりで贖罪できるような、単純な構図ではあるまい。そもそも学界自身が、手前味噌・お手盛り的な体質を持っているからこそ、こういう問題が起こった。そして同じ穴のムジナだからこそ、近親憎悪で強くバッシングしている。そういう意味では構造的な問題だ。いやこれは、考古学に限らず、日本の学者なら多かれ少なかれ持っている傾向だといえる。

学界が多かれ少なかれ持っている、独善的、ひとりよがりの体質と、専門バカ、社会性の欠如が結びついたときどうなるか。外側からの牽制が効かなくなった学者がどうなるかは、オウムの毒ガス研究や、旧陸軍の731部隊をみればスグわかる。オウムの事件のとき、多くの論調は、象牙の塔のエリートだった学者のタマゴたちが、何で疑いもなく毒ガス作りにいそしんだかいぶかった。しかしぼくはその当時から、その技術への盲目性、学究的関心のみで社会性のなさといった、学者達のもつ構造的な問題点を指摘してきた。

彼らは、命令されてやったのではない。学者魂というか、日本の学界の持っている体質として、自己フィードバック的に暴走しだすと、そっちへ突進してしまうサガがあるということだ。生体解剖でも、人体実験でも、やれるとなったら喜んでやってしまうのが、学者という人種だ。クローン人間も、学者であれば文句なしにやりたくてしかたがない分野だろう。かれらは、学問的好奇心の前に盲目だ。そこには倫理観も、社会性もない。

もちろん、学者の中にも人格者で倫理観にもたけたヒトはけっこういる。それは、官僚の中にも、明解なビジョンや問題意識を持った人がいるのと同じだ。だが、元来学問の道で名を成すには、人一倍そういう面で高潔なデリカシーが必要となる。しかし、日本の場合はちょっと違う。もともと誰も見ていないと、傲慢になり勝手にし放題というのが、日本人の本質的な特性だ。「旅の恥はかき捨て」体質といおうか。こういう気風が蔓延しているからこそ、学界においても、ストイックな倫理観は問題にされない。

そして、基本的に外部からは見えないブラックボックス状態となっているのが、象牙の塔の中身だ。これで傲慢さが増長しないわけがない。そんなワケで日本の学者というのは、そもそも社会性がない。自分がその領域では、全知全能の存在だと思っている人がオドロくほど多い。自分に技術的できることは、全て許されると思っている。そして、自分が技術的にできたことは、全て正しいことだと思っている。この構造は、今回の事件も全く共通している。

もちろん理系と文系の違いがある分、構造的違いはある。学究をキワめるが余り、反社会的な倫理観のボーダーを越えてしまうということはない。しかしその分、思い込みと事実の境界がアイマイになる傾向は強いだろう。真実は自分が創り出せる。いや、自分が創り出したストーリーこそ真実であり、自分の手にかかれば、それはねつ造ではない。こういう意識が根底にあったことは否定できない。

しょせん、学者なんてこんなものだ。藤村前副理事長が特殊だったわけでもないし、アカデミックな教育を受けていないからモラルに問題があったわけでもない。多くの学者が、少なからず共有している体質のもたらした結果だ。これを例外として片づけるのは簡単だろう。しかし、それでは相変わらずの「臭い物に蓋」だ。それではもうすまない時代になっている。そういう意味では、とてもタイミングのいい事件といえるだろう。直接的な被害者がない状態で、学界の問題体質を問うことができたのだから。


(00/11/17)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる