円熟のオキテ






工業社会から情報社会へ。21世紀の幕開けと共に迎えるパラダイムシフトは、一面、世代交代にともなう世代間戦争という色合いを濃く示している。しかし、ここで問題なのは、年寄りが一概に悪であり、若ければ何でも許されるという、過去の世代間戦争とはかなり様相が異なっている点である。それは、かつてのように人間の価値を決めるものが「体力」ではなく、クリエイティビティーに基づく「知力」になったからだ。確かに体力なら、ほとんどの場合若い者が勝つだろう。しかし、アイディア、創造力という面では、必ずしも若ければいいということにはならない。

一流のアーティストの生涯にわたる作品をみてみれば、その事実はすぐわかる。たとえば、独自の世界を確立した芸術家の一生を、各時代の作品で振り返ってみよう。若い頃の作品はそれなりに粗削りだが「勢い」という魅力がある。一方、歳とともに円熟味が加わって、老境に入ってからの作品は、まさに高い創造力が極限まで達した「完成度」という魅力がある。どちらも作品として価値があるからこそ、一流のアーティストなのだ。問題は体力ではなく、その創造力の有無だ。クリエーティビティーさえ飛び抜けたものがあれば、年齢は問題でない。

年齢の問題が生じるのは、能力やクリエーティビティーがない人間が、年齢という「定量指標」だけで地位を得て君臨し、権限をもってしまったことによる。この問題は、過去の工業化時代の遺物としての年功序列制が、その基盤となっていた「工場のラインの部分品としての人間」の役割が崩れたにもかかわらず、制度として強固に残ってしまったことにより激化した。そして工場の現場よりも、本社部門でより強烈に弊害が現れることになった。工場のラインはかなり早くからオートメーション化されたのに対し、年功制度は機械化が遅れていた本社の「ホワイトカラー」の部分でより強く残存していたからだ。

そもそも本社機能のホワイトカラーは、高度成長とともに、かつてのマネジメント機能から、単なる事務処理・管理機能に重点が移った。ホワイトカラーの多くは、もはや知的な仕事ではなく、労働集約的な単純作業に従事することになった。こうなると、悪貨が良貨を駆逐する。ホワイトカラーは経営者予備軍としての、リーダーシップを取るべきエリートから、単純な事務処理テクノクラートになってしまう。まさに戦前は籍になるエリートだった「会社員」が、「サラリーマンは気楽な稼業」になってしまった由縁である。こうなると経営者も、こういう安易なサラリーマンのエスカレーターのゴール以外のなにものでもなくなる。

元来、リーダーシップなき経営者などあり得ない。しかし高度成長期は経済も右肩上りだったので、基本的にかじ取りをしなくてもそこそこの利益は上り、会社としての存続は可能だった。経営がなくても会社は動く。これ自体、実は異常な事態なのだが、なかばそれが常識化してしまった。こうなると、本来経営者としての能力がないのに、エセ成功体験を持ってしまった人が続出する。彼らは、元来能力がないがゆえに、過去の成功体験に固執する。そして、その象徴たる自分の地位に恥も外聞もなくしがみついてしまうのだ。

かつてはそれで済んだことは確かだ。ワザワザ道を作るまでもなく、誰かが偶然切り開いた踏み分け道さえみつければ、そこを物量で立派にするだけでビジネスになった。少なくとも儲けは出た。しかし、今は何もないところに道を自ら切り開かない限り、可能性は生まれない。リスクを取る勇気と、無からチャンスを生み出す創造性、この二つがあってはじめてビジネスは生まれる。かつての道を追いかければ儲かった時代の経営なんて、「お猿の電車」みたいなものだ。そこでうまく動いても、経営者のやっていることは猿レベルの所作。ボタンを押すだけ。本当にかじ取りをしているわけではない。

老害の本質はここにある。そういう老醜をさらすご老人も、孫を可愛がる瞬間などをみれば、決して悪い人ではないのだろう。問題は、いい人であっても、決して人の上に立つ人、人を引っ張ってゆくリーダーではないということだ。経営者としての資質がないのに、企業のトップになっている。これは、本人にとっても会社にとっても不幸としかいいようがない。こういう人をトップにつけてしまう、あるいは、トップにつけざるを得ないというのは、本人のワガママというより、コーポレートガバナンスの問題といったほうが適切かもしれない。

では若ければいいのかというと、そういうこともない。若さだけでマグレ当りすることもないとはいえない。しかしそれで大きな一発が出ても、文字通り「一発屋」で終わってしまうのがオチだ。こういう人はクリエイティブとはいえない。本質を見抜けず、その勢いだけで評価してポジションを与えてしまうのもまた、人を見る目がないというガバナンスの問題になってしまう。ベンチャーなら何でもいいという発想は、「大きい一発」だけを期待する、「ハイリスク・ハイリターンが好きなバブリー志向」という意味ではあってもいいとは思うが、それでは勝ち残ることはできない。企業経営はこれでは成り立たない。

これからの時代、けっきょく人間はクリエイティビティーにつきる。新しいものをクリエイトする能力は、人間に生まれついた以上は、元来なにがしかは持ち合わせているはずだ。クリエイティビティーを失わず、磨きつづけている人もたくさんいる。こういう人にはなにも問題はない。これからも今まで同様に、自分の道を粛々と行けばいい。問題なのは、長い人生の中でそれを退化させてしまった人だ。こういう人を時代に適合させるには、残念ながらリハビリが必要だ。工業社会の機械人間はもう通用しない。人間性を取り戻さなくては勝負できない。

そういう意味では、まだおいしい目にあまりあっていない若い者ほど、リハビリは簡単なことは確かだ。楽しようと思わず、自分の才能を磨く努力をはじめれば、いつかはモノになる。一方若くして一発屋になってしまったベンチャーバブル紳士は、多少手間がいるかもしれない。成功体験を自己否定できればOKだが、そこから抜けだせないと企業舎弟の黒いワナも待っている。そして、アマい汁を吸い切ってきた年寄りは回復不可能かもしれない。老害問題は、単純にいえばそういうことだ。しかし、クリエイティビティーを持ち、そこに円熟味を重ねてきた人なら、今まで以上にその存在価値は高くなる。能力と努力しだいというところ。つまるところ、これからの世の中、「能力問題」はあっても「高齢問題」などあり得ないということだ。そういう意味では、年寄りほど能力に問題がある人が多いことも、また確かではあるのだが。

(00/11/24)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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