「器」の時代






20世紀に生まれたものにとって、「努力」は無条件に絶対善だった。それは産業社会を、努力神話が支配していたからだ。「並」の人間であっても、努力と鍛錬でなんとかできる。それは工業化のプロセスが、人間の手数、足数、頭数を必要としていたから生まれただけのこと。こう考えると、努力神話が生まれたのは、産業社会特有の現象ということができるだろう。この結果、本来異なる個性、違う価値を持つ人間を、平等なモノとして扱う悪平等化が起こった。才能がない人間でも、努力しだいで何とかなるという幻想が生まれる。アメリカン・ドリーム・ストーリーでも、実際には能力を持つ選ばれたものだけが成功するのだが、誰もがチャンスがあるという虚構に皆が踊っていた。

しかし、いまや時代は変化した。そのカギとなったのがコンピュータ社会の到来だ。ある意味で、コンピュータは努力の権化だ。疲れを知らず、猛スピードで「努力型」の積み重ねを実行する。だからそういう「並」の人間でこなせる業務なら、コンピュータで完璧にこなせる。そもそも、人間の所作には不確定要素が入りばらつきが大きい。しかし、コンピュータにはムラがない。その分、コンピュータのほうが上だ。努力神話は、既に過去の遺物となった。IT革命の本質はここにある。ディジタル・ディバイドの問題も、ここから生じている。コンピュータやインターネットの操作法などどうでもいい。コンピュータでできないことがどれだけできるかという、人間性そのものの問題が問われているのだ。

手先の所作で考えてみよう。熟練工の神業、これはコンピュータや産業ロボットで再現こそできる。しかし機械仕掛けでは、新たな手法をクリエイトすることはできない。熟練工の「器」たる由縁は、過去のノウハウの蓄積だけでなく、新たな課題が生まれたときに、それを解決しうる手法を生み出せるところにある。一方、「頭脳労働」と呼ばれていたホワイトカラーのほうが、問題は深刻だ。現在でも官僚機構に代表されるように、単なる情報処理にすぎないことを人間系で処理している組織は多い。コンピュータ&ネットワークがデフォルトのモノとなれば、こんな組織などいらない。組織が動くには、判断する人間が一人いればいい。あとはコンピュータのほうがよほど信頼できる。

大切なのは、その人でなくてはできない付加価値をどれだけ生み出せるかだ。これは、努力でどうこうなるものではない。コンピュータが得意とするのは、膨大なデータベースを前提にした、過去の情報やノウハウの整理統合だ。この領域では、とても人間では太刀打ちできない。人間がコンピュータに対して勝ち目があるのは、過去の再生産ではない要素を生み出す場合だけだ。ゼロから何かをクリエイトする。この要素があってはじめて、人間が関わる意味があるといえるだろう。こうなるともはや、人間そのものとしての価値の勝負だ。だからこそ「器」が問われる時代になったのだ。

考えてみれば、世の中は「器」を無視して動いていた。人間が先か、肩書きが先か、というのが、「器」主義かどうかの分かれ目となる。その発端は、高度成長に伴う需要の急激な増加により、モノまね商品しか作れない企業でも、それなりに利益を出し、事業として成り立ってしまったことにある。いわゆる二番手の物マネ企業だ。こういう企業は、そもそも器にない人間だけで成り立っている。個々の人間性の前に肩書があるような組織だ。トップもまた、器にない人間が就任することになる。これらの企業の現状が「負け組」だ。時代の変化を前に、経営不振になったり、不祥事を起こしたりして、企業自体が立ち行かなくなっている。

人間の「器」は、基本的に先天的な問題だ。ない人にはないし、ある人にはある。これは生まれつきそうなっている。だから、努力や汗でどうにかなるという問題ではない。もちろん、才能があるだけでは意味がなく、それを不断に磨く努力をしてはじめて能力が発揮され、「器」たるモノを備えられるのはいうまでもない。しかし、才能のない人間がいくら頑張ったところで、何も生まれない。ゼロに何を掛けてもゼロ。全く無意味だし、エネルギー資源のムダ使いでしかない。早いうちに自分の才能を見極めて、相対的に優位にある分野にエネルギーを集中するべきなのだ。早く考え方を変えよう。そうしないと、今ならあるかもしれない「相対的優位性」すら退化してしまうかもしれないのだから。



(00/12/01)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる