無責任の歴史観






近代社会は、ある意味でイデオロギーの時代だった。主義主張によって人にレッテルが張られ、人が識別されていた。しかしそれは人類史上においては特異な時代である。主義主張という理屈の問題は、決して人間の本質ではない。前頭葉の先っちょの部分で、自分の生きかたとは関係ないレベルで「考える」ものだからだ。近代社会の本質にはシェア争い的な要素が強く、それが理屈にまで及んだと考えるべきだろう。だからこれからの世の中では、もっと根源的な人間性のあり方が問われる。一方で、甘えていて、無責任で、他力本願の人。他方に、自立していて、自分を持ち、責任を取れる人。これから重要になるこの対立軸は、人間性のあり方での問題であり、主義主張とは全く位相が違う軸だ。

「新しい歴史教科書を作る会」の主張には、いろいろ意見もあるとは思うが、議論の内容としては聞くべき点がある。個人的には、太平洋戦争において連合国に対して謝罪する必要な全くないと思っているし、アメリカの人種差別的な戦争戦略は、決して許すべきではないと思っている。それはさておき、「謝って逃げるのはもうやめにして、キチンと責任を取れる人間になって、自分の言うべきことを言う」という論点は、論点の好き嫌いと関りなく正しい。その一方で、その枠組みには危険な点もある。それは議論の内容ではなく、もっともその論調の対極にあるはずの「甘えていて、無責任で、他力本願の自立していない人間」が、自分が甘えるための免罪符を求めて摺りよってきやすいという点だ。

このように問題なのは、思想・信条の中身ではない。それはあくまでも自立した人間にとっては、個々人の自由であるべきだ。右だ左だ、国家主義だリベラルだという軸は、そもそもどっちだっていいし、幅があればあるほど文化としての基盤は豊かになる。問われるべき軸はそっちではなく、その人が人間として自立しているかどうかだ。自立していない人間が、教条主義的に感情のおもむくまま旗印の下に集まりだす。これが危ないのだ。これをキチンと識別し、自立していない人間、無責任で甘える人間には「一人前の権利を与えない」というぐらいの強い姿勢で臨まなくては、日本人はいつまでたっても「12才の子供」のままだ。いや、あまりに甘えにひたった戦後を過ごしたので「5才」ぐらいに退化しているかもしれない。

甘えていて、無責任で、他力本願の、困ったちゃんの人達ほど、自分の外側に強くよりかかりやすい柱をみつけ、それにしがみつこうとする。国家とか民族というのは、実にそういう連中のより所になりやすい。日の丸を掲げるから偉いのではない。自立して責任を取れる「ひとかどの人間」であってはじめて、日の丸を掲げ、君が代を唄えるのでなければおかしい。国旗や国歌というのは、そのぐらい崇高なものなのだ。しかし、「甘えていて、無責任で、他力本願の自立していない人間」ほど、自分を高める努力をせず、国旗や国歌のご威光にすがれば、自分も「ひとかど」になったような勘違いをする。それが甘いのだ。本来、ノブルス・オブリッジを果たせる人間しか、国旗を掲げることも、国歌を唄うことも許されるべきではない。

アジアに対しても、自立して自分の責任をきちんと取れる日本や日本人になれば、相対的な立場の違いを主張しても相手に受け入れられる。同時にそういう姿勢なら、卑屈にならず「言うべきことは、責任をもってきちんという」こともできるだろう。そもそも「謝罪」や「弁解」というのは、誰だかわからない存在に責任を押しつけて逃れようとする、無責任な行動だ。右も左も、みんな無責任。キチンと自分に責任を持てる人間や国が、認めるべき責任は認めた上で、それぞれの立場を主張し、尊重できるようにしてこそ、国際社会での一人前のプレーヤーだ。日本人はこの点、あまりに無責任だ。それは、政治家や官僚、財界人といった、国際社会で国を代表すべき立場の人間からしてそうなのだから、はずかしい限りだ。

このように、日本人には自分を確立していない人、自立していない人があまりにも多いところが問題なのだ。これは今に始まったことではない。それが証拠に、戦時中の軍国主義を支えてきた「マスヒステリー」こそ、そういう自立していない人間がより所を求めて群れた姿だ。戦前の日本が暴走したのも、無責任なヤカラが段々偉くなって再生産され、国や軍隊、企業組織の中枢に座るようになったからに他ならない。自分に責任も取れない、自立していない人間が、権限や権力だけ握ったらどうなるか。考えるまでもなく、大暴走のカタストロフ以外あり得ないではないか。昨今の企業の不祥事、政界・官界のダッチロール状態も、この無責任さゆえであるのは言うまでもない。

今後の社会を考えてゆく上で、いまさら「大きい政府」はありえない。大きい政府という発想自体が、そもそも他力本願。寄らば大樹の陰という人間の発想であり、そういう人間の巣窟になることは明らかだからだ。小さい政府の強く自立した国。それがこれからの理想像だが、ここにもおとし穴がある。本来、強く自立した国になるには、その構成員が個人として自立した、自らの存在や行動に責任を取れる人間でなくてはならない。しかし、強い国家の旗印のもとには、弱い自立できない無責任な甘え人間が、やはり寄りかかれる「大樹」を求めて摺り寄ってくる。ここがこれから大きな問題になるだろう。まず、一人一人の人間が責任感と自立心をもたなくては、本当に強い国にはなれないからだ。

そもそもそういう「甘えていて、無責任で、他力本願の人」が、「一人前でござい」という顔をし、大手を振って生きてゆける世の中が間違っている。まずここから変えてゆくべきだ。悪貨は良貨を駆逐する。これからの世の中では、そういう人間ぬくぬくと隠れられる「逃げ場」や「風よけ」をなくす必要がある。しかし、自立した人間なら、そういう環境でも難なく生きてゆけるし、自分の世界を築ける。人間を鍛えなおすところ、自立していない人間はいっちょまえに扱わないこと。これができれば、国家なんて自動的にしっかりしてくる。これからの社会を堅固なものとし、そこで人々が力強く生きるためには、この自立こそが鍵になる。甘えている人間が偉そうなことを言うな。自立していないオマエに人権などない。正面切ってハダカで闘える勇気を持つていてはじめて人間と認められる社会、それが21世紀なのだ。


(00/12/15)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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