20世紀日本の失政






20世紀の日本の歴史を振り返れば、その最大の事件としては、戦前の軍国主義の台頭と、その大暴走による侵略(個人的には、帝国主義時代の軍国主義は、「侵略するのがデフォルト」と信じているので、あえて肯定的な意味で侵略と使う)が、誰にとっても一番先に頭にあがるだろう。しかし、これは結果論であって戦略ではない。誰かが意図して体系的にとった政策ではないからだ。たとえば「戦略家」であった石原莞爾氏が描いていたアメリカとの対決ビジョンは、結果として日本がやったような「アジアの侵略」ではなかった。そういう意味では、失敗ではあるが「失政」すなわちミスリーディングではない。逆に、戦略や政策がないからこそ生まれた悲喜劇ということもできるだろう。

日本人が政治リーダーとなってやってきたことは、明治以降、基本的には「西欧に追いつき追い越せ」という近代化路線である。よく考えてみればわかるとだが、国富、生産力、技術などの面で「追いつき追い越す」というのは、実は手段であって、戦略的な目的ではない。追いつき追い越せは、現場の目標としては明確だ。何かの目的のために国力をつけるという意味では、極めて有力な手段・戦術だ。しかし戦略がないまま、それ自体を目的化してしまっては自己撞着を起し、極度のフィードバックがかかりすぎて暴走に至るのは目に見えている。それが明治以降の日本の歴史である。

しかし、その戦術を取り入れた明治初年から、目的たる戦略として、「日本の独立を守る」のか、はたまた「一流の帝国主義国として、世界に冠たる植民地を持つ」のかがあまりにも不明確だった。これはすでに、明治初年の「征韓論」「征台論」から尾を引いている。それらの議論にあったのは、国内の不平士族ヘの対応と、列強の進出からどうやって独立を守るかという、純国内的なテーマだったはずである。しかし、それが明解な戦略議論もなく、なしくずし的に近隣地域への侵略・植民地化という「純帝国主義展開」に変わってしまった。そういう意味では、どれをとっても戦略、政策として評価できるレベルではない。

そういう意味でよく言われるのは、明解なヴィジョンにもとづいてとられた政策は、戦後のアメリカ占領期だけということだ。こと近代史について言うなら、これはあたっているだろう。なにせ、今まで戦略のセの字もないような、場当たり政治、場当たり作戦しかやったことがなく、すべて結果オーライで来た国に、戦略の権化みたいなアメリカが支配者としてやってきたのだから。これは、まさに赤ん坊とディベートの鬼が議論するようなもの。赤ん坊は「議論と関係なく泣きわめく」という武器しか持っていず、結局はおとなの言いなりになってしまうようなものだ。

占領期の政策で、よく問題にされるのが「日本国憲法」と「教育基本法」である。しかし、こういう議論をする人に限ってちゃんと事実を見ていない。この両法は、確かに占領下にアメリカの指導の元に作られたものである。だがそのアメリカ軍が日本にいたのは、施行後数年のことである。後生大事に、この両法律を金科玉条のごとく大事にし、法律そのものに手を入れることなく、拡大解釈での運用をしてきたのは、55年体制下の政界、官界ではないか。これは、もとの法律が悪いのではなく、その後の対応が悪かっただけだ。

もっと言うなら、そのように「拡大解釈」ができたことからもわかるように、この両法ははっきり言ってザル法である。何も決めていない。何も明確に規定していない。単なる精神論でしかない。だからこそ、各人が「我田引水」して自分に都合よく解釈しようとする。問題はここにある。みんな都合がいいから、そこに頼るし、結果どんどん実体のない、言葉尻だけの問題になってしまう。「護憲派」も馬鹿しかいない。一切の軍事力を否定し、自衛隊も否定したいなら、そのように厳しい条文に憲法を改正しようというが筋だし、そうしなくては議論にならない。そうしないのは、自分の主張が余りに空想的で支持が得られないものであることを、自分自身直感しているからであろう。

では、何が問題か。ぼくはここであえて問う。今世紀最大の日本の失政、それは「農地改革」である。これが、日本および日本人の自立性や責任感を奪い、本来日本社会が持っていた経済メカニズムをメチャクチャにした。戦後の社会、経済の歪みが問題になるとするならば、それは農地改革による、農地解放の強要が社会を歪めたからだ。今問題にされがちな社会の荒廃も、教育とかそういう問題ではない。教育など、常に社会全体の構造の従属変数でしかない。悪いのは社会全体のユガみ、ヒズみなのだ。そしてそれを引き起こしたものは、日本社会の経済的発展メカニズムを無視した農地改革なのだ。

なぜ農地改革が問題か。それは、近代以降社会の発展のカギとなっていた、シュンペーターの言う「起業家精神」を生み出す土壌を日本から奪い、利己的で無責任、そして甘え切った現代日本人を大量に発生させ、愚衆政治をもたらすきっかけとなったからである。最近の、江戸時代の文章記録にもとづく、社会・経済構造への分析にはめざましいものがある。これにより、戦国時代から江戸時代の初期にかけて、生産力の増大と、武士階級の官僚化にともない、中世的な「領主による土地所有・農奴的な耕作」の体系が崩れ、近代的な「農民によるフラットな土地所有」の形態が出来上がったという見方が定着した。

今までも、「皇国史観」そしてそれと裏表一体の「マルクス史観」にとらわれない人々の間では、このような考えかたもあった。実際ぼくの学生時代の論文のテーマは、シュンペーターの史観にもとづく「江戸時代の起業家精神」である。自己肯定はさておき、かつてのように、江戸時代が封建的で中世的な農奴制という見方は、完全に崩れた。では、どうして農地解放で土地を奪われる地主が生まれたのか。それは、生産組織としての「家」の合理性の差と、起業家精神・勤勉さといったリーダーの能力の差である。要はどんどん努力し、合理的経営をして規模を拡大しようというモチベーションを持つ人が家を近代的な生産組織化することにより地主化し、そうでない現状維持派の人が小作人になった。それだけのことである。

別に封建制度の残存でも、前近代的な農奴制でもなんでもないのである。それどころか地主層の持つ「起業家精神」が、実は日本の近代化の原動力であったのだ。地主層は、自己責任で自立的に行動できる、起業家精神あふれる層である。彼らは自らいろいろな事業を起した。それだけでなく、投資家としてその資金を、ベンチャーマインドあふれる事業者に、セルフリスクで投資した。このため、戦前の日本の株式市場は、今以上に個人投資家の比率が多いだけでなく、自己責任で活発な投資が行われていた。まさにちょっと前のアメリカのNASDAQのようなものだ。政治でも戦略でもなんでもない。このような草の根ベンチャーマインドが国中にあふれていたからこそ、近代化が進んだのだ。

しかし、農地改革はこの日本の発展を支えた事業家・投資家層から、その資金源を奪ってしまった。そして、それを無責任で甘えの構造にすがるのをモチベーションとしていた「小作人層」にばら撒いてしまった。もともと日本にはそういう人間のほうが多い。だから地主層の数が相対的に少なかったというだけだ。ヤる気のある人がおおければ、自然と自作農が増えているはずだ。それ以降の日本経済が、規模こそ大きくなってきたものの、その拡大とともにどんどん利権を拡大し、利権にすがる人間だけを増やしてきたことも、実にむベなるかな。こういう失政を許してしまったがゆえの当然の帰結である。

何のことはない。その後生まれた55年体制とは、「冷戦」という錦の御旗に名を借りた、一億総無責任体制のことだ。この点において、自民党と社会党の利害が完全に一致していたからこそ、あれだけ堅固な体制が続いたのだ。結局55年体制の続いた40年間というのは、陰に陽に利権をばら撒く体制を築き、そこにすがる無責任な日本人を増やしただけだ。こういう視点からは、公共事業にすがる土建屋も、悪平等のベースアップを目指す労働組合も、ゴネ得でおこぼれをもらおうとする住民運動も、みんな同じ穴のムジナだ。その結果は「インフレとしての高度成長」でしかない。

自立していない人間たちを支持基盤とし、そこに利益誘導することで、自らも責任をとれないような人間がリーダー面する。寄らば大樹の陰がキーワード。実は真中に柱も何もないのだが、お互いにもたれあえば、それなりに立っていられる。規制も、許認可制度も、公共投資も、利権も、すべてこういう器の無い連中の「国家ごっこ」のまやかしでしかなかった。まさに、自立していない人間、責任をとれない甘えん坊にも平等の発言権を与えたときにあらわになる、「民主主義の構造的限界」がここにある。これを生み出した元凶こそ、農地改革なのだ。

20世紀の日本、その問題の構造はここにある。問題を指摘し分析するだけなら、評論家、学者でもできるだろう。しかし、改革はやらなくては意味がない。戦略目的をもって、そこに向かって邁進する。それでこそ改革だ。もし、これからの日本を活性化したいと思うなら、それはこの失政の結果をどう償い、フォローするかということにかかっている。一人の人間にとって半世紀は余りに大きい。しかし、人間の歴史にとっては一瞬のことであり、リカバリー可能な寄り道でしかない。21世紀を迎える今こそ、明治以来の戦略なきダッチロールから脱し、あらたな目標に向かって進む好機だ。そのためにも、先人の失敗を素直に学び、それをもとにもどす努力が不可欠といえるだろう。

(00/12/22)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる