大衆の終焉






20世紀の世界を語るキーワードはいろいろなものが考えられる。メディアでは政治・経済から語られたキーワードがあふれている。しかし生活者という視点からは、20世紀はなにより「大衆社会」として捉えることになるだろう。大衆社会の特徴は、あくまでもマス集団としてのマクロ的な視点からのみ捉えられる、匿名性と受身性にある。人々がこういう「一山いくら」のバルクで捉えられる発想は、近代社会ならではのものであり、人類史的にみても20世紀に特異な現象だからだ。

近代社会では、表面的な共同体の崩壊による「個の確立」と裏腹に、実は個人としてのアイデンティティーが問われない局面が増えてくる。匿名の消費者がマス消費市場をリードしていったことに、象徴的に現れている。「不特定多数」こそ、近代消費マーケットの特徴だ。そこで繰り広げられたマス・マーケティング戦略は、実態があるかないかさえわからない、理論上の「ヴァーチャル」な消費者に対して、どうコミュニケートし、どう売ってゆくかというものであった。

近代社会とは、それがいいか悪いかはさておき、人間史的に見れば、生産の規模の経済が先行し、人間がそのシステムの一部分とならざるを得なかった特殊な時代である。それは、産業革命以降の工場制生産の導入から始まった。19世紀。蒸気機関に代表される、巨大なパワーの生産過程への導入。機械は生産のチェーンのポイント・ポイントで、莫大な生産力を発揮するだけであり、それを結ぶものはあくまでも人間だった。生産力が莫大になった分、間をつなぐ人力との落差は大きく、それを埋めるために非人間的な労働が行われた。「女工哀史」の世界である。

20世紀に入ると、生産技術、機械技術が飛躍的に進歩した。生産チェーンのリンクも機械そのものが行えるようになり、ここに流れ作業による大量生産が可能になった。しかし、この段階で直接の生産ラインは機械化されたものの、そのコントロールや高度な加工、生産のフレキシビリティーが求められる部分は人間のコミットが不可欠だった。20世紀も後半になると、制御技術が飛躍的に発展する。コンピュータの発展はライン制御の自動化に始まり、加工機械のNC制御やプログラマブルな産業ロボットを実現した。この時点で、ブルーカラーと呼ばれる生産力の一部分としての人間の腕力は、必ずしも必要としなくなった。第一の「ライン離れ」である。

一方、ホワイトカラーと呼ばれる事務管理部門における変化は、工場の自動化がかなり進んだ20世紀後半になってはじまった。1950年代、60年代においても、コンピュータの処理能力や通信能力は限られていたため、いわゆる「手計算」による事務処理が主力だった。日本で新幹線の開業と共に導入された、オンライン指定券販売システムである「マルス」は当時世界的に見ても革命的なものだった。

ハナシはズレるが、新幹線の醍醐味は車両や施設ではなく、運用のソフトウェアにある。300km/hや350km/hで走れる車両や線路は、あるレベルの鉄道技術のある国なら充分作れる。たとえば中国でも作ろうと思えば問題なく作れる。しかし、高速鉄道を地下鉄並みの5分ヘッドで走らせる運行ノウハウや安全ノウハウ、それを支える各種リソースの運用ノウハウがスゴいのである。こういうノウハウは海外にはない。この事実は意外と知られていない。

実は日本がスゴくて優位性があるのは、俗に思われているようにハードウェアじゃなくて、こういうノウハウ、運営ソフトウェアの部分だ。新幹線の運行ソフトウェアもそうだが、トヨタのカンバン方式に代表される、生産ノウハウもおなじコトだ。これがハードウェアの強みと勘違いされるのは、日本ではかつて低賃金を利用し、人力でラインを組んでいた伝統から、モノ作りに直接関わる「大衆」が多く、彼らが根本的に思い上がり、勘違いをしているからに他ならない。

70年代以降のコンピュータおよびネットワーク技術の進歩、特にマイクロプロセッサ登場以降の分散処理・ネットワークの発展は、この流れを大きく変えた。人間系でなくてはできないと思われていた、事務処理、管理業務の多くが、コンピュータ上で可能になった。しかし、日本では当時高度成長の最中であることからもわかるように、まだ近代産業社会型の成長余力を残していた時代だった。そのような関係もあって、技術的可能性の増大の割には、実際の企業組織の変革は遅れた。80年代にはやったOA化の掛け声も、ビジネスフローの革新・最適化まで進まず、旧来の組織と人材は残したまま、デスクの上の文房具を変えたにとどまっていた。

そういう事情もあって、企業においては20世紀も末になるまで、本社部門・事務部門にはまだ人間系で事務処理をしていた時代に採用された、「人間事務処理器」が多く残っていた。80年代ぐらいまで、世界的に見てもこの傾向は顕著だった。彼らは情報を整理するだけであり、なにも付加価値を生み出さない。40代以上の人なら、かつて「コクヨの集計用紙」なるフォーマットがあったことを覚えているだろう。「単純作業ホワイトカラー」「集計用紙」「電卓」。この三つを組み合わせたものは、まさに「人間エクセル」だ。いまならマネージャーが直接パソコンでできることも、当時は管理職が部下の「人間エクセル」に指示してやっていたのだ。

これに最初に手をつけたのがアメリカである。アメリカの90年代後半の好景気は、80年代のリセッションに苦しみ、少しでも多くのコストダウンを図らなくてはいけないという命題に取り組んだアメリカ企業が、いち早くこの「事務処理ホワイトカラー」の高コスト性に気づき、付加価値を生まない人間をカットしコンピュータ化したからである。コンピュータは、ただ入れてもコストダウンにはならない。高度成長期なら、処理にともなって増えたであろうマンコストをセーブしたというメリットも生まれるだろうが、一般には、低コストのコンピュータにより、高コストの人員を置き換え、整理できてこそメリットが生まれる。

これがIT革命の持つ意味だ。20世紀をささえてきた「大衆」とは、このような「ラインの一部に組み込まれ、部品化した人間」のことだ。受身で生きてゆけるというのは、それはそれで楽なことだ。しかし、IT革命はそれと競合する。受身の仕事は、人間系ではなく機械がやるべきもの。人間は人間にしかできない「知恵」を出してはじめて評価される。このためには、誰もが認める「個性」をもった人間でなくてはいけないし、そのためには「自立し、自己責任をとれる」人間でなくてはいけない。無責任で甘えるだけの「大衆」では、もはや生きては行けない。このように、IT革命は誰にとってもメリットがあるものではない。

90年代が日本では「失われた10年」と呼ばれる一方、アメリカでは「バブルに浮かれた10年」であった。どちらにしろ20世紀的な価値観の延長上に、あらたな指標が見つけられず、浮遊する人達が浮遊しているところでは似ている。すでにパラダイムシフトは起っている。花を切花にしても、水に刺しておけばスグには枯れないように、価値観の転換が起り、根無し草になっていたとしても、すぐに食えなくなるわけではない。じわじわと効いてくる。日本においては、大衆のなれの果てである、人徳のない「学歴のみのエリート」が、官界でも経済界でも事件を起こしまくったのは、じわじわと効いてきたその変化の現れということができる。

近代の終焉、それは現実のものとなった。しかしその変化は、世の中がある日を境にリセットされてしまうようなものではない。今後も「近代」にオプティマイズしすぎた「無個性的人間」は当分残る。大衆社会は崩壊しても、大衆は残ってしまう。21世紀の初頭は「自立し責任をとれる人間vs.甘えて無責任な人間」の最終戦争になる。近代を乗り越えられる「改革派」と、近代に固執する「守旧派」の対決。これが当分続くだろう。ムダといえば偉大なムダだ。しかし、古今東西の戦争の歴史をみてもわかるように、戦闘は「雌雄を決し」てからの方が激しくなるし、犠牲者も多いのが常だからだ。

「大衆」は、貪欲な消費者だが、決してクリエータにはなれない。どんなにがんばっても受身であり、文字通りの消費者でしかない。だから、相互に発信者であり受信者でにならなくては居場所が作れない「ネットワーク型の社会」では、生きてゆけないのだ。モノまねはできるけど、それでは情報化社会を乗り切れない。若い人の間で「クリエータ忌避」が見られるのも、社会全体が「20世紀型大衆社会」にしがみつく人と、「21世紀型自立社会」を目指す人に、明確に二分されてしまった結果とみることができる。そういう傾向は日本で顕著だが、それは日本独自の問題ではない。アメリカで起っている下層白人層での「キリスト教フンダメンタリズム」への傾斜も、同様のプロセスだ。

いままでは、もの創る人間が「金になる」というだけで、大衆に媚びすぎてきたコトも問題だ。パクりなどはその典型だろう。そうすると今度は、クリエーティブな遺伝子をもたない「大衆」の中から「俺にもできる」という勘違いをするヤカラがでてくる。試験のテストの点がいいだけで、自分はリーダーの資格があると思い上がる官僚やエリート社員のように。これが全体のレベルダウンを招き、「金が取れればそれでいい」というクリエーターのモラルダウンをもたらした。そう考えると、「大衆」がスポットライトを浴びて上り詰めた姿は、「トンネルズ」に代表されるのかもしれない。

この20年ぐらいの日本は、明らかに「大衆文化」でやってきた。しかし今問われているのは「大衆文化の終わり」だ。「大衆的」の反語は「エリート的」ではなく、「文化的」なのだ。そういう文脈では「大衆文化」というコンセプト自体が矛盾を孕んでいる。金儲け主義の刹那的発想だ。そんなものは文化じゃない。その最後のあだ花がバブルで、その時のたくわえももう尽きようとしている。「大衆」の人達は、「モノまね」で成り上がって、成金にはなれても、なにか欠けてるモノがある。それが「文化」なのだ。「文化」のDNAをもっていなかったり、それを退化させてしまった人間にはもう居場所はない。この最終戦争を勝ちぬいてはじめて、近代の向こう側にある人類の未来はやってくるのだ。血生臭い死臭の中から生まれるポストモダンの21世紀。それはそれで何とも美しいではないか。闘おう。同士たちよ。


(00/12/29)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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