新たなる戦争の世紀へ






ひとことで戦争といっても、長い人類の歴史の中では、その目的や形式は多様なものがあった。だが近代においては、戦争は国民国家間の対立を武力により解決するものであったため、多くの人にとっての戦争のイメージはそれを引きずっているだろう。しかし戦争というのはそれだけではない。「武力により解決するもの」というくだりは同じでも、何の対立かは時代により違う。対立する集団、対立のカタチが違えば、当然別の戦争になってくる。古代戦争は、都市国家や地域血縁集団間の対立であった。また、民族や宗教間の対立による争いは、昔からあとを絶たない。そういう意味では、近代においては「抗争」や「内乱」と呼ばれた武闘行為も、集団間において行われる限りは立派な戦争なのである。

もっとも戦争により決着の図られた近代の国民国家間の対立も、その原因や構造は多様なものがある。そこまで掘り下げてみれば、けっきょくは民族や宗教の対立や、資源や財宝の奪い合いという、古代以来の対立の構図が出てくるものも多い。このように人間集団がある限り、その間には対立がつきものである。そして集団間の対立がある限り、戦いの火はやむことがない。まさに人間のサガである。近代の産物たる「国民国家」は、程なくその使命をおえるであろう。しかし、それが戦火を地上から一掃するものとはならない。そこには、また違った形の対立が生まれるはずである。

では21世紀においては、どういう対立が基本的構図になるのだろうか。それは、かつてのようなデモグラフィック的集団ではない。また、時代の変革期にはつきものの、世代的な違いでもない。これからは、「人間の器の違うもの同士の対立」が中心になる。そして、器の似たもの同士が合従連衡し、器の違う者達の集団と抗争をくりかえすようになる。21世紀は工業社会のような右肩あがりではない。基本的にゼロサムゲームだ。その中で、イス取りゲームというか、限られたパイを取り合う抗争が求められる。そうなれば、実力を元に少数での総取りを目指すチームと、悪平等に徹し、能力とは関係なくなるべく多くのメンバーに一律にバラ撒こうとするチームとの間で、決定的な利害の対立が起るからだ。

このような対立は、今に始まったものではない。しかし、それが表に出てくるための手段がなかったのだ。器の違う人間が、住む地域や民族的なつながりを優先して、縦に連合を組んだのが、近代の国家であった。それはそういう物理的・地理的な関係しか、関係性を結ぶ基準になる手立てがなかったからだ。これに対し、これからは、ネットワークにより地域や民族を越えて同質の人間がつながり、横に連合を組めるようになる。まさにネットワーク社会が実現したからこそ、器の対立が表面化するようになった。このヴァーチャルな横のつながりを基本とする「同質集団」同士が、覇権を争うようになるのが21世紀の戦争だ。もちろん、集団がヴァーチャルなぶん、戦闘もヴァーチャルかもしれない。

そうなればその分、実際に命を賭けリソースを損耗するリアルの戦争よりコストの敷居が低くなり、「戦争」は頻繁に起ることになる。勝負は真剣でなくてはならない。今までも、社会で、マーケットでいろいろ競争はあった。しかし、それはある種ルールや型に守られた「格闘技の試合」であり、命がけの喧嘩にはならなかった。市場が成長していたから、徹底的に相手を潰さなくてもいいし、負けそうになったらそれなりに逃げることができたからだ。だがこれからは違う。ゼロサムゲームでは、自分が生きるか、相手が生きるかである。だからこそこれ、演習やスポーツの試合ではなく、戦争なのだ。

この戦争は、人により生み出せる価値やエネルギー、ネグエントロピーに差がある以上、その多寡が争いのタネになっている。高付加価値タイプ対低付加価値タイプ。これは一見勝負にならないようにも見えるが、決してそうではない。エネルギーや価値を生み出せる人は、一対一なら圧倒的に強い。だが絶対数では相対的に少数だ。一方、受身の人間は攻撃力・防御力とも弱い。しかし、絶対数でまさっているため、民主主義よろしく数の力に頼ることができる。したがって、これは「力対数」という勝負になる。これは、それなりに好対戦たり得るだろう。

実はこういう勝負は、今までもイロイロなところで行われていた。俗人対聖人。創りだせる人対使うだけの人。暗黙値対形式値。いままでぼくが論じてきた中でも、これと同じ構造の対立は、いくつも取り上げてきた。もっと直裁に、コンピュータ以上、コンピュータ以下の対立といういいかたもした。今まで何度も言ってきた、「甘え、無責任」人間と、「自立、自己責任」人間の、行動規範の対決ということもできる。その昔はやった「ニュータイプ」ではないが、産業社会の時代とは「人間」の基準が変わってしまったのだ。明らかに人間の「基準」は進化した。その進化に適応できた人間と、適応不全を起こしている人間との間に、埋めようのない亀裂が入ってしまったということだ。

人類がいつまで生きているか知らない。今後、地球上に高度な知的生物が生まれるかどうかもわからない。しかし、後世から人類史を振り返る立場に立てる存在が、今後存在するとするなら、この21世紀を「人類の変曲点」として位置付けるに違いない。人類は確かに変化し、2種類の人類が生まれた。そのどちらがこの戦争に勝ち、生き残るのかはわからない。しかし、どちらが勝ったにしろ、もはや人類はそれ以前の人類ではいられないからだ。多分、それを先に意識した方が、より勝利にちかづくのだろう。もちろん個人的には、「自立、自己責任」を規範とする「器のある」人間が勝利を収めて欲しいのはいうまでもないが。



(01/01/12)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる