天才・能才・異才・凡才・非才






最近クリティカルになっている問題に、才能か努力かという問題がある。個人的には、「能力=才能×努力」の方程式示されるように、才能だけでも、努力だけでもダメで、才能がある人が努力してはじめて何かを成し遂げられる、というスタンスなので、この点は全然問題ないのだが、コダわる人はここで引っかかっているようだ。それゆえ、2世や世襲を必要以上に嫌う人がいる。一方で、全てDNAに帰する人もいる。大体、本人が才能を持っているのなら、それがどこから来たものかなんて気にするワケがない。はじめからあったのだから。でも、そうでない人に限って気にするようだ。この両論は、どちらも本当だし、どちらも全てを語っていない。そもそも視座が違うのだ。

本人に才能があるかないかと、どういう親から生まれたかという関係は、個々に見てゆけば、色々な組合せの可能性がある。親子ともに才能に恵まれているという例も多いが、親はすばらしくても子はダメ、逆に親はダメでも子はすばらしいという例だっていくらでもある。一つ一つの事例を結び付けてゆく限りは、あらゆる組合せが存在する。個別の遺伝とはそういうものだ。西ヨーロッパの人々、東アジアの人々、など、エリア的に近い集団の中から一人だけ抜き出して、それがどこの国の人か言い当てるのは、外見からでは極めて難しいようなものだ。このレベルは、あくまでも個別バラバラの話だ。

しかし、遺伝とは確率的現象であるところに特徴がある。一人だけ取り出したのでは判別できないし、傾向値もわからない特性も、ある程度の集団になればはっきりと見えてくる。それは、事例が増えれば増えるほど、確率の差が定量的に把握できるようになるからだ。才能のない親から才能のある子供が生まれる確率と、才能のある親から才能のある子が生まれる確率との間には、圧倒的に有意な差がある。そういう「確率的現象」としては、才能は遺伝する。マス・サンプルのレベルになると、鷹の子は鷹、鳶の子は鳶である可能性が圧倒的に高い。

そもそも才能も肉体に備わった形質である以上、遺伝しないわけがない。もっとも、それを努力によって開花させるかは、本人次第ではある。それにしても、そもそもその「タネ」がなくては意味がないし、「タネ」があるかないかは、生まれながらのものだ。将棋に「成り金」と言うのがある。才能のない人ほど、そういうのにあこがれるらしい。将棋の歩は、みんな裏に赤く「と」と書いてある。だから「成れる」のだ。人間はそうは行かない。ひっくり返して、赤く「と」と書いてあるかどうか。書いてなくては、いくらがんばってみたところで「成れない」のが世の掟だ。

種も蒔いていない畑に、いくら水をやり肥料をやっても、雑草が生い茂るのがオチだ。稀に、偶然鳥や野犬が野菜の種を落すことがあるかもしれないが、それは偶然。そんなのは農業ではない。そういう可能性を期待して、水をやったり、肥料をやったりするのは、どう考えても「愚の骨頂」でしかない。いまやタレントの時代である。スター性という意味での「タレント」ではない。タレンティッド、すなわち、生まれながらにして才能に恵まれているかどうかと言う意味での「タレント」でなくては、付加価値を生み出せないからだ。野菜のタネ、歩の裏の「と」。タレントとはそういうものだ。最初にこれがなくては、いくら努力してもはじまらない。

当然のことだが、本人の才能や質と関係なく、単に生まれや出自で差別してしまうのは言語道断だ。しかし、明らかに才能やタレントに違いがあるのに、差をつけないのも逆差別だ。人間は道具ではない。いわれたことをきちんとやるだけなら、人間に命令するより、コンピュータをプログラミングしたほうが、ずっといい。無から有を生み出し、付加価値を生み出し、人類とその社会、生活を、明るく、楽しく、充実したものにする。これができたからこそ、人間は進化した。そしてこれをやってこそ、人間だ。

スポーツや音楽の話だと、才能の有無やその遺伝を比較的素直に受け入れる人が多い。スター性、カリスマ性も、ある程度、生まれながらの敷居があることは常識だ。しかし、リーダーシップや判断力、モノをクリエイトする力といった、日常の生活や仕事に近い話になると、一気にその視点が崩れる。努力次第で人間はなんとかんるという、悪平等が大手を振ってのさばりだす。しかし、悪平等主義の先には破綻と不幸が待っているだけだ。それは悪平等の時代になって、人類の生み出した科学や技術が、人類を苦しめ、社会を暗いものにしたコトからもわかる。才能のない人間に、平等に「力」を与えてはいけないのだ。

無理するな、あんたにだってどっかいい所はあるし、それは人類のために役に立つのだ。そのために、信じている宗教によって違うが、神様だったり、お釈迦様だったり、阿弥陀様だったりが、あんたという人間に対し、この世での生を授けたのだ。それを見つけれることがまず第一。幸せは、決まりきった生活のカタチに自分をハメることではなく、自分らしい行き方を全うすることにある。それができてはじめて、自分が生きている証を得ることができるし、自分の人生が、人類にとって価値あるものとなる。まあ、中には何も特筆すべき点のない「凡才」「非才」の人もいるかもしれない。そういう人のためにこそ、「英霊」になって靖国神社に祭られる道を残しておかなくてはいけないのだろうが。


(01/01/19)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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