国家と救済






明治22年の大日本帝国憲法公布以降、明治維新後の不満士族の動き以来脈々と続いてきた自由民権運動は一段と興隆を見せ、それまでの「反藩閥運動」的な行動から、大衆政治運動としての様相を示してきた。これに対抗し、立憲体制にふさわしい倫理基準を求め動きとして、明治23年「徳育涵養の義に付き建議」が行われるなど、明治維新以降の臨時政治体制的な要素は変化し、近代的な立憲君主国としての「大日本帝国」の枠組みを、それぞれの立場からどう捉え、どう行動するかが、政治運動のポイントとなってきた。

以上のような経緯をうけて作られた「宣言」が、教育勅語である。これは「大日本帝国憲法に基づく立憲政体としての日本と、そこにおける天皇制にふさわしい倫理基準と教育思想を、天皇と臣民がともに誓うもの」として作成された。教育勅語はかなりの名文であり、高度な漢文の素養がなくては真意をつかめない高尚な文章であるが、きちんとその内容を理解すれば、俗に思われているように、軍国主義的でも、復古主義的でもない、近代の倫理基準として充分な内容を持つものであることがわかる。

大日本帝国憲法において重要なポイントは、超法規的なのは「万世一系の国体」であり、それをよりどころに、法的な規定として「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す(第一条)」という天皇の存在が規定されている点にある。これゆえ、大日本帝国は「近代における立憲君主国」というその地位と天皇制との折り合いをつけることができた。きちんと法律としての「大日本帝国憲法」をとらえてみれば、「19世紀の立憲君主国の憲法」という時代性こそ免れることはできないが、けっしてそれ自体の中に、20世紀前半の日本を規定した軍国主義への傾斜をビルトインしたものでないことが理解できる。

したがって「憲政下の倫理」を明文化する教育勅語もまた、同じようには「近代における立憲君主国」にふさわしいものでなくてはならないはずだ。実際「教育勅語」はそのイメージとは裏腹に、「大元帥からの軍令」として出された「軍人勅諭」のように無媒介に超法規的な天皇からの諭旨ではなく、あくまでも大日本帝国憲法に基づき、「まず何よりも「明治憲法」の条文、さらにはその条文を成り立たせている原理・精神と、厳密に整合する」(「天皇と日本の近代化」八木公生)ものであり、決して超越的なものではない。

このため勅語の内容は、「教育勅語のような一つの短い文章が強烈な印象を与えたことは、国際的にも稀有な例」(「日本近代思想体系6「教育の体系」」岩波書店)であるとともに、今も一種の吸引力を持っている文章であり、あの家永三郎氏をして「頗る普遍性豊かにして近代的国家道徳を多分に盛った教訓」(「教育勅語成立の思想史的研究」)と評価せしめたものとなった。これは「君主が臣民の良心の自由に干渉」する恐れのある「一の国教の建立」の危険性を徹底的に排除したゆえに可能になった。

従来の勅語観は、その内容や語られている思想・倫理に対する肯定・否定を問わず、「成文化された勅語の内容」ではなく、その影響を含めて、この文章をめぐって外部的に行われた儀礼や荘厳の呪縛から逃れていないところに問題がある。というより、もっとストレートにいえば、内容への議論を回避、あるいは議論に参加できないレベルの人々が、その内容ではなく、外部的要素のみからの判断をだけを元に、肯定・否定を論じているところに問題がある。

「甘え・無責任」に基づく日本人に多いの宗教観として、「寄らば大樹」としての宗教というものがある。頼れるものであれば、無論理、無批判的に宗教として感情的に受け入れ、それを心のよりどころとしてしまう性癖だ。さて、このように「教育勅語」は、内容は極めて普遍的で優れていたが、あまりに高尚な文章であり、正しい理解のためには高い教養が必要とされ、多くの国民にとっては真意は理解不可能であった。しかし、それは天皇陛下が与えてくれた「ありがたい文章」であることは、誰の目にも明らかだった。

そして、それは中央政府の「威厳」を示すべく、一定の「儀式」をともなって国民の前に現れた。このため「教育勅語」は、ある種の「紋所」「免罪符」となり、形式の神聖さが重視される、「宗教的存在」として熱烈に受け入れられた。それは日本人の宗教観ともあいまって、内容とはかけ離れた「意味性」を持つことを意味する。やはり日本人に人気の高い高尚な文章に、「般若心経」がある。「般若心経」を写経や読経する人は多いが、その説く内容自体をきちんと理解している人がほとんどいないことと、「教育勅語」の問題は、構造的によく似ている。

もとより多くの庶民は、近代社会を生き抜いてゆくよりどころを持たなかった。結果「教育勅語」を含む明治憲法体制の「宗教化」が起こり、その中で「勅語」は内容とはうらはらに、「甘え・無責任」を転嫁するよりどころを求めていた「大衆」の心の故郷となった。しかしこの「形式の宗教化」は、戦後の「日本国憲法・教育基本法」への帰依と、全く構造を一にするものである。「軍国主義」を支えた「天皇の神話」は、「戦後民主主義」の「マッカーサーの神話」にエピソードが変わっただけで、信者のマインドコントロールは全く変わっていない。「護憲・改憲論」「勅語・基本法論」の対立がその内容ではなく、あくまでも形式に拘泥する理由もここにある

このように「甘え・無責任」の大衆層においては、戦前・戦後の違いは、すがる大樹の種類だけであり、実は一貫性の方が強い。実際、和辻哲郎が語ったように、日本国憲法の「日本国民統合の象徴」という規定は、日本の歴史を一貫して流れる「治らす(しらす)」存在としての天皇のあり方を的確に表現しているものであり、国事行為へのかかわりも含め、内容的には「近代立憲君主国」のあり方として、明治憲法の規定と強い一貫性を持つ。

「自立・自己責任」に基づく行動がとれる「近代市民」を前提に考えるのなら、「明治憲法・教育勅語」体系も「日本国憲法・教育基本法」体系も、「近代立憲君主国」の基本規定としてはそれほど異なるものではない。しかし明治期においては、「自立・自己責任」の近代市民たる「エリート層」よりも、「甘え・無責任」の愚衆であっても、急速な近代化推進の原動力になる「近代大衆」の大量生産が不可避であり、市民社会の確立を待たず強力な大衆化が推進された。

これはこれで歴史的な必要性があったのかもしれないが、この順序の取り違いが、のちに大衆がその「数」により力を持ち、エリートがその中に埋没するという、戦前の日本の悲劇の引き金となったことは間違いない。近代市民たる前に寄るべき大樹を見つけ、「甘え・無責任」の中に生きる道を見つけてしまった人々。日本の不幸はここにある。そしてこの構図は、戦後も一貫して引き継がれている。現在我々が抱えている社会的な諸問題も、その原因が「甘え・無責任」にある以上、20世紀前夜の日本を席巻した「大衆創出」に求められる。そして、20世紀も終った今こそ、その落とし前をつけなくてはならなくなっているのだ。(参考図書:「天皇と日本の近代(下)-教育勅語の思想-」八木公生)


(01/02/09)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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