価値観の共同体を構築せよ






20世紀に生きた我々が、それが当り前と思い、それが正義と信じてきた社会のありようは、必ずしも過去から未来に続く永遠の真理ではありえない。それどころか、20世紀というのは、人類の長い歴史の中では、どちらかというと特殊な社会の時代だったことを忘れてはならない。たとえば、民主主義がある。それをバックアップするロジックである、一元論の社会、多数決の社会という考えかたは、普遍の真実ではない。それは、産業社会の特徴だ。産業社会では、数の論理がなにより優先された。何をするにも、「頭数」が必要だった。その意味においては極めて合理性があったからこそ、そういう原理が採用されたに過ぎない。

もはやこの原則が幻想に過ぎなかったことは、一部の人々には自明のものとなっている。ITとネットワークによる、ポスト産業社会ヘの流れが、この掟を変えたからだ。そこでは、数、必ずしも力ならず。なによりモノをいうのは、アイディア、付加価値だ。いくら頭数を多く揃えても、アイディアがなくては、付加価値がなくては、全く闘えない。数の論理は、実戦には何ら役に立たないのだ。ポスト産業社会は、多数の雑魚は、少数の精鋭の前にかなわない社会だ。

情報社会は、人間を社会を維持するための生産力の桎梏から解放し、生物としての本来の姿に戻すところに特色があるといわれている。これが本当だとするならば、今後、この人間社会のカタチそのものも、生き物としての人類が持っていた本来の形に戻るはずだ。われわれが「社会」とおもっている、数の論理を中心とする人間組織は、あくまでも「富の生産と分配」を前提とした組織である。そういう組織形態になったのは、人類百万年の中でも、農業生産力が飛躍的に高まり、交換経済が生まれた、たかだか数千年、いっても一万年のことに過ぎない。それが人間の常態というワケではないのだ。

そして生活の場としてのコミュニティーの形も、その社会の組織構造に大きく左右されてきた。だから、産業社会以前の時代においては、数の論理がコミュニティーの構造を決めていたということができる。その町や村が生産単位として成り立ってゆくため、コミュニティーが作られ、そのルールが決められた。そこにいる限りは、その決まりには従わなくてはならない。しかし、社会が数の論理に動く限り、そのメリットもはっきりしていた。与えなくてはならないものも多かったが、与えられるものも多かった。だからこそ、そこにディールが成り立っていた。

共同体のための個人と、個人のための共同体。これは、持ちつ持たれつの関係にあった。しかし、それはあくまでも、富の生産合理性とでもいうような、元来の共同体のモチベーションの外側にある指標バランスをとり、成り立っているものであった。その指標を成り立たせている「外的評価軸」が変わってしまえば、その成立基盤自体が失われる。決して永遠に続く原理ではなかったのだ。事実、すでにネットワーク上では、これからのコミュニティーを先取りするかのように、ヴァーチャルなコミュニティーが生まれている。それは、リアルなエリアや擬制的な血縁関係、ある種の取引関係といった旧来のコミュニティーの原理ではなく、個性・パーソナリティーを基本とするコミュニティーである。

これが、われわれが今まで歴史的に慣れ親しんだコミュニティーとは、構成原理が違う。アプリオリに自分の属するコミュニティーが決まっているところからスタートするのではなく、自分にふさわしいコミュニティーを選び、そのコミュニティーからメンバーとして受け入れられて初めてコミュニティーになる。コミュニティー「である」のではなく、通過儀礼を経てコミュニティー「になる」のだ。今後は、リアルな世界でも、このような原理が波及し、コミュニティーの再編が行われるはずである。

価値観のあり方により、人々が集い、コミュニティーを創り出す。それは、元来の人類のコミュニティーの原点だったはずだ。だから、一度その味をしめてしまったひとが、リアルの世界だからといって我慢できるとは思えない。今までは両立できなかった、本来のコミュニティーのあり方と、生産力や文化の享受。これが情報技術の進歩により可能になったのだ。同種の人間でコミュニティーを作るという意味では、ある種、カルトはそのさきがけだったかもしれない。ただ出てきた時代がちょっと早すぎて、、社会の側にそれをソフトランディングさせるだけの余裕がなかったということだろう。一元的な社会では、一つの価値観を表に出した集団の居場所はなかった。

しかし今は構造が変わっている。いや、構造が変わらねばならない。多元的な集団、多様な価値観をもとに世界や人類といった社会が成り立つことが求められている。だが考えてみれば、これはかえって、内部に矛盾や対立をを抱えつつ存在しなくてはならない、国家を単位にした世界より、平和裏に世界的統合を成り立たせることがたやすいではないか。コミュニティー間の距離感さえキープできるなら、その構成員がコンフリクトにさらされることはないし、距離感をキープした上での、世界レベルでのコンセンサスは、個々の人間が直接構成員となるよりも、このような価値観のコミュニティーを基本とした方が、より矛盾なく作り出すことができるからだ。

高度な生産力や、人類自体を滅ぼしかねないパワーを持った科学技術。産業社会を前提とする限り、人類社会はこの両刃の剣の上で、ハイリスクな世界を生きなくてはならない。その危機から人類を救うもの。それはそもそも人間にとって中途半端な存在である「国家」から個人を解放し、第一義的には「価値観の共同体に」所属するようにすることである。それは、価値観共同体のこそ、元来の人間のコミュニティーのあり方だからだ。そうすれば、世界は「価値観のコミュニティー」の、これまた共同体として成り立つことができる。これほど、多元的な価値観を担保できる世界のあり方は他にない。多元論の時代には、多元論にオプティマイズした組織形態こそがふさわしい。そしてそのキーワードこそ、情報化が実現する、「価値観の共同体」なのだ。


(01/02/16)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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