二つの日本






日本人の大衆の行動様式の基本には、「甘え・無責任」の原則が深く刻まれ、これが受身体質を生み出すとともに、進んで「長いものに巻かれ」ることで楽をする「お上至上主義」となって現れている。これを生み出したルーツは、風土や気候のみならず、地勢学的なものや歴史的な流れも影響しているだろう。しかし、今問題になるのは、一般的な気質の問題ではなく、このような近代国家の原理としてふさわしくない「倫理観」を基本に置く国家がどうして出来上がったかである。その意味では、明治憲法体制が、なぜ「甘え・無責任」を行動原理とする大衆を生み出したのかが問われなくてはならない。

この問題を考えるには、そもそも「大日本帝国」が近代の国家として、「どういう国家」だったのかを客観的につかむ必要がある。久野収が「現代日本の思想」(1956岩波書店)でのべたように、明治以来の伝統的国家主義は、日本の思想史全体を貫く独自の「思想観」を越えることはなく、思想というより制度であった。在来の日本の伝統も外来の思想や理念も、およそ「思想」に類するものは全てこの制度をまもり、動かすための解釈のシステム以上に出ることはなかった。すなわち思想以前に、伊藤博文を指導者とする明治の元老たちが創り上げようとした「国家の構造」を理解する必要がある。

したがって明治憲法下のあり方を論じる際に重要なのは、「解釈のシステム」である。これは、庶民の「顕教」(通俗的)と、エリートの「密教」(高等的)という二重システムによる天皇制の解釈と運営に、その本質がある。たてまえである「顕教」は初等教育や軍隊で教えられた、天皇を無限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈のシステムであり、ほんねとしての「密教」は大学及び高等文官試験を通って初めて明らかにされる、憲法その他により限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。ある種の矛盾、欺瞞を孕んではいるものの、近代国家としての日本を独立させるには、これ以外の方法はなかったのではないかというぐらい、芸術的なシステムである。

天皇を中心に、一方で「密教」徒による近代立憲君主国としての「大日本帝国」。もう一方で「顕教」徒による宗教的集団としての「神国日本」。まさにCEOを中心に、株主のためのマネジメント、顧客・社員のためのオペレーションという二つのピラミッドが対峙するかのように、天皇をはさんで二つの違う国が並立する姿こそ、明治憲政の特徴なのだ。これにより、近代的自我の確立しない「甘え・無責任」を行動原理とする大衆を、近代的自我である「自立・自己責任」を行動原理とするエリートがコントロールすることで、大衆のマインドのボトムアップを図ることなく、近代化・富国強兵に邁進することが可能になった。

このように明確な目的性、戦略性をもって「国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、事実上、天皇国家最高機関説を採用する」(同上)システムが導入されたわけである。しかし、密教が上層部の解釈にとどまる一方、大正デモクラシー以降、明治期の元老が予期しなかったほどに、「顕教」しか知らない人々が社会にはびこり実権を持つ「大衆社会化」が急速に進んだ。19世紀的な近代国家の建設であれば、この「芸術的二重構造」で乗り切れたであろう。しかし、世界は20世紀に入り大衆国家化の波をかぶることになる。これは日本とて例外ではなく、微妙なバランスの上に成立している明治憲政は、大きな変形を余儀なくされることになる。

この変化の影響を最初に受けたのが軍であった。急速な組織の拡大と、そもそも軍隊組織が持つある種の合理性ゆえ、「大衆」の軍組織への流入は急速に進んだ。「密教」信者の幹部が、「顕教」信者の兵をコントロールする仕組みは、早くも日露戦争の頃から崩れ始め、大正時代を通して、幹部そのものも「顕教」しか知らない「大衆出身者」へと置き換わっていった。このため、昭和の声を聞くとともに軍部主体の「顕教による密教征伐」が起こり、無責任な超国家主義が跋扈することとなったのだ。

この契機が226事件である。226事件を軍自身が収拾できず、結局天皇の超法規的な判断にたよらざるをえなかったことは、一つには、軍の組織自体が、完全に「顕教」信者の手に落ちたこと、もう一つには、天皇の存在が「顕教」信者の望む「超法規的存在」になったこと、の二つの面から、「密教征伐」の画期となったということができる。無責任な超国家主義がまさに、226事件の収拾とポツダム宣言の受諾という、昭和天皇の生涯2度の憲法からの逸脱の間のできごとであったことに、「密教」と「顕教」の相克という、芸術的であったがゆえの明治体制の脆さを見て取ることができる。

これは、前に「国家と救済」で述べたように、日本人の大衆に脈々とうけつがれたある種の宗教観ともオーバーラップしている。宗教が元来持つ自力救済、自助努力という視点は、教祖の宗教家には満ち溢れているものの、大衆に布教し教勢を拡大する中興の祖以降は一切失われてしまう。それどころか、ある種の「紋所」「免罪符」として、宗教的には教義より形式の神聖さが重視され、内容とはちがう表面的な「意味性」の方が重要になる。日本人の多くは、その宗教の教義や説く内容自体を理解することより、形式的な荘厳に依存することで宗教心を満たしているのだ。

結果、明治憲法体制を「宗教化」した「顕教」徒にとっては、天皇制を含む明治憲法体制そのものが「甘え・無責任」を転嫁するよりどころとなり、日本型「大衆」の心の故郷となった。この「密教」「顕教」の二重構造は、戦後も維持された。それは日本の社会構造を熟知したGHQが、自らの支配の道具として、この二重構造を使ったからに他ならない。そこで起こった「形式の宗教化」が、戦後の「日本国憲法・教育基本法」への帰依である。その意味で護憲論は、その精神性において戦前の軍国主義信奉と全く構造を一にするものである。どのイデオローグに立つ人も、結局は近代日本の歴史に対する「総括」ができないままでいるのも、その違いが単に「顕教」のご本尊の違いと考えれば合点が行くだろう。

「密教」と「顕教」のどちらが正しいかと議論しているのではないし、その是非を問うわけでもない。ここで主張したいのは、結果として近代において、「日本は二つある」状況を生み出してしまった事実を受け入れなくてはならないというだけだ。近代国民国家のスキームが崩れつつある今、無理してこの二重性を「一つの国民国家」の枠組みの中に押し込める必要はない。いままで目をつぶらさせられてきた「近代日本史最大のタブー」を、いまこそ直視すべきときが来たのだ。事実としての「二つの日本」を認識し、それをもとにこれからの私たちの国のあるべき姿を議論してゆくことが必要とされている。これからは、それを前提としてこの国のあり方を考えてゆくべきなのだ。


(01/02/23)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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