「失われた十年」の真相






21世紀に入って、1990年代も過去の歴史になったかのように、頻繁にその総括が行われるようになった。実は状況は何ら変わってはいないのだが、「失われた十年」などと称して、まるで他人事のように「評論」する論調が横行している。その多くが、「過去の成功へのこだわり」が強すぎ、パラダイムシフトがスムーズに進まないことを指摘している。戦後の復興から、高度成長期。そして頂点に達したバブル期。一貫して日本が追求してきた、「日本モデル」。ひところは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として世界的に賞賛されたその成功体験から抜けられないことが、十年間の無為無策につながったというのである。

しかし、成功体験へのこだわりは、その「成功」の内容によるのではない。それは、こだわる側の人間性の問題だ。その人が、「ビジネスモデルを自分で創りだせる人」なのか、「ビジネスモデルを自分で創りだせない人」なのか、その違いがこだわりとなって現れる。これは「企業家精神」の有無といってもいい。自分で作り出せる人は、成功体験にはさしてこだわらない。ビジネスモデルを自分では創りだせず、他人の創ったモデルを取り入れたり、先人の創ったモデルにのっかるだけの人ほど、過去の成功体験へのこだわりが強い。

そりゃそうだ。自分で創りだした人なら、またピンチやトラブルが押し寄せてきても、自分の知恵でなんとか乗り切れるだろうという自信があるし、その知恵を出す方法も知っている。だから、成功体験には全くこだわらない。それだけでなく、自分が本質を知るからこそ、そのモデルの限界もよく知っている。しかし、他人のふんどしに乗るしかしらない人は、そこから放り出されたらどうしていいかわからない。だから成功体験にこだわるのだ。もちろん成功した中には、偶然一発を当てただけという人もいるが、こういう人は、メソトロジーがないという意味では、創りだせない人と同じ枠組みに入る。

これもまた考えてみれば、このところマイブームとしてホット・イッシューとなっている、「密教徒」対「顕教徒」の抗争の一つのパターンだ。「ビジネスモデルを自分で創りだせない人」は概して、「凡才」「非才」な人であり、「甘え」「無責任」な人であり、「受動的」「他力本願」な人だ。こういう人は、人からもらった「成功体験」を捨ててしまうと、もう後がない。自ら道を作り出すことができない以上、自分ではどうすることもできない。これは能力の違い、いわば構造的な問題なのだ。

本来、モノまねしかできない人は、リーダーたり得ない人だ。他人に使われて、手足として活用される分には、そこそこ役に立つかもしれない。しかし、そういう人が権限を持ってしまうと不幸だ。人にはそもそも、もって生まれた役割というものがある。それではイヤだ、と思うかもしれないが、今までくりかえしてきたやり方に固執する以外、方法を知らない以上どうしようもない。違うものは違う。それは偉い偉くない、正しい正しくない、という問題ではなく、「同じ人間でござい」という顔ができたこと自体が、すでに悪平等でしかない。

グローバルブランドになっているトップ企業をはじめ、学問でも、技術でも、芸術でも、スポーツでも、あらゆる分野で日本でトップの人材なら、世界で通用するのは間違いない。その意味では、今でも日本のクオリティーは高い。問題は、そうでない人、そうでない部分のほうが、量的に多いこと。これが、平均の足を引っ張っている。「成功体験」の思い込みは、「そうでない部分」の人間も、過去に利権や許認可規制、さらには右肩上がりの経済成長に助けられて、二流の顔を見せることなく、表向きは「オレは一流だ」と威張れたことから生じた思い上がりだ。

企業も同じ。決められた仕様に合わせて、安価でOEM生産する技術力・生産力を持っていることと、自社ブランドで魅力ある商品を開発して、高い付加価値でそれを売る能力があることとは、全く違うコンピタンスだ。高度成長期の市場のテイク・オフ期で、人々がモノに飢えていたから、モノまね商品でも売れただけのこと。そっちが例外的にラッキーだ。商品をクリエイトできる能力と、生産できる能力とは、全く違うことだ。物理的に生産できるからといって、クリエイトできるわけではない。日本企業の多くはここをはきちがえていた。

一流の皮を被った、実態は二流の企業。そこで、一流の肩書きがついた、実態は二流の人間。日本企業の多く、いや、日本社会に生きる人々の多くの実態はそこにあった。これは、人格も人徳もない「顕教徒」が、軍隊というヒエラルヒカルなシステムの中で、その数を背景に徐々にその勢力を強め、最後には日本を破滅に追いやった構図と全く同じだ。彼らはもともと、甘え、無責任で無能な連中だ。自分をクールにみつめ、客観的に評価することなどできるわけがない。同じ間違いを何度も繰り返すのは愚の骨頂だ。そして、いまや頭数が問題の時代ではなくなった。いまこそ、「顕教徒」に鉄槌を下し、その息の根を止めるべき時が来たのだ。

(01/03/02)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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