タリバンと「大仏」





アフガニスタンのタリバン政権による、バーミヤンの大仏の「破壊」が、マスコミの話題となっている。タリバンに代表されるような、イスラム原理主義勢力を支持するかどうか、大仏の「破壊」を肯定するか否定するかということについては、それこそいろんな議論があるし、それぞれの立場によって多様なオピニオンにならざるを得ない。それはそれで大事なことだし、いろいろな議論が百出してこそ、多様な文化、多様な価値観が世界の中で共存してゆくためにはどうしていいかを探ることができる。しかしそのことと、タリバンによる大仏「破壊」への「反対運動」の是非とは、ちょっと次元が違うのではないか。

欧米を中心とする、大仏「破壊」への「反対運動」には、どことなく「偽善」の臭いがする。いわゆる「ポリティカリー・コレクト」というか、建前として誰も反対しにくいお題目を立てることで、その陰で何かを隠そうとしているような怪しさが満ちている。「文化財を壊すのはやめましょう」という主張は、京都の古寺に張ってある標語と同じで、文字面においては誰も反論できない正義である。しかし、その文言が正しい建前だからといって、それを声高に主張し喧伝することが常に正義とは限らない。そして、その建前の仮面を剥して、素顔を公開することは、なんら正義に反するコトではないはずだ。

しかし、そこをウマく混同させてしまうところが奴等の手口なのだろう。今回は、この問題について掘り下げてみたい。そもそも、アフガニスタンは内戦の最中なのだ。戦争をしている。この事実をネグレクトしては、問題の構造は理解できない。戦争の最中では、平時の論理、平時の建前は通用するわけがない。ここに気づかなくてはいけない。戦争には侵略はつきものだし、虐殺はつきものだ。先に一人でも多く敵を殺し、先に敵地に攻め込んでそれを自分の配下に置かない限り、自分が先に殺されるし、自領が先に敵に奪われてしまう。戦争が、殺し合い、奪い合いを競うものである以上、これは、いい悪い、好き嫌いの問題ではない。戦争とはそう言うものなのだ。

その流れで考えれば、戦争には略奪と破壊が必ずつきまとう。これもまた、先に略奪しなければ自陣が略奪されるし、先に破壊しなければ自陣が破壊されるという、戦争の持つ競争性が必然的に生み出す結論だ。そんなことは、古今東西の戦争の歴史を見ればわかる。それだけでなく、帝国主義時代に西欧諸国が植民地でやったように、略奪そのものが目的という行為だって歴史上はある。イギリスやフランスの博物館に行けば、植民地諸国から奪ってきた文化財であふれている。彼らにすれば、自分の手元に「保存」されているからいいのかもしれないが、それはとんでもない思い上がりだ。

その遺跡の白眉とも言える財宝や遺物をとられてしまえば、その遺跡は破壊されたも同然だ。もともとその文化財を持っていた国からすれば、そこにあった遺物が、物理的に破壊されるのも、西欧諸国が奪っていってしまうのも、なくなってしまうということでは何ら違いがなし、破壊ということでは全く同じレベルではないか。そう考えてゆくと、偽善の意味がよくわかる。今回の反対運動をはじめたのは、なんと世界の文化財の大泥棒の一人たるフランスである。そして、音頭をとっているのは、帝国主義による略奪の先頭に立っていた西欧キリスト教諸国である。こう考えてゆけば、かれらの主張に正当性がないことはよくわかるだろう。

もちろん、文化財の破壊は決して誉められる行為ではない。しかし、ここには別の視点もある。所詮、文化財は人間が生み出したものである。それを壊したところで、人間が自分で作ったものを自分で壊すだけのことだ。それはある意味で、自己責任の範囲といえるだろう。これを否定しだすと、遺跡を壊して宅地にしたり、道路や鉄道を敷いたりと言うこともできなくなってしまう。もっというと、今使っているものが古くなったので、壊して作り直すこともできなくなってしまう。平城京は用途廃止されると同時に、リアルタイムで解体され、資材は再利用された。それがなければ、何がしかの建物は残っていたかもしれない。今から振り返ると、こういう行為も「破壊」として否定されてしまうことになる。

石仏も、多くの遺跡がそうであるように、あと何千年かすれば、自然の営みにより風化し、いつかは跡形もなくなってしまうはずだ。そう考えれば、破壊したところでそれを少しはやめただけのことでしかない。現代人類という視点ならいざ知らず、地球規模で考えれば、たいした問題ではないのかもしれない。そう考えると、環境の積極的な破壊のほうが余程重大な地球への挑戦だ。諫早湾の水門で、有明海が死の海になってしまうとか、ダムを作ったことにより、流域の植物や動物が生きられなくなってしまうとか、こういう行為の方が人類の罪としては重いはずだ。

これが、マスコミやジャーナリズムの偽善だろう。人間がやった行為の結果をどうするかは、ある程度人間の手にゆだねられても仕方がないだろう。しかし、人間もその一部分であるはずの地球、そして自然を非可逆的に破壊する行為は、人間の判断に任せられるものではない。ましてや、本質的に行為に対する決定権と責任能力を持ち得ない官僚が、単に行政の一貫性という目的だけで「GOサイン」を出せるものではない。マスヒステリーの感情論で、大仏破壊に「No」を唱えることはたやすい。しかし、本当に「No」というべき相手はそう言うものではない。これをキチンと理解できてこそ、人類が唯一「知性を持つ」生物だと主張することができるのではないだろうか。

(01/03/23)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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