「無党派」とは何か





3月25日に行われた千葉県知事選挙で、堂本暁子元参議院議員が激しい票争いを制して当選した。それが「予想通り」と見るヒトもいるだろうし、「予想外」と見るヒトもいると思う。しかし、地方自治をめぐる政治の構造変化という意味では、各地で起こっている流れに乗っているコトは確かだし、いわゆる「無党派層」の動きが重要な役割を果した、というところでは、政治関係者や各ジャーナリズムの見方は一致しているようだ。しかし、この「無党派層」という言い方、どうにも違和感がある。それは、そもそも旧来の政界の常識では捉えられない人達に対して、無理に今までの枠組みを適用してものを語ろうとしているからだ。

そもそも「無党派層」は、無党派という党派の支持者ではない。旧来の政治の論理でいう党派とは、イデオロギカルな構造や、利権・許認可権益の構造といった、共通の利害目標に従ってまとまり、行動する人達である。しかし「無党派層」には、そういう共通の利害も、共通の行動目標もないはずだ。だから、旧来の政治の論理ではくくれない。それだけに、今までの政治の構造からはハミ出している。そもそも次元が違う存在なのに、無理に政治の論理でくくるから、無党派層というつかみどころのないものになるという方が正しいのだろう。

旧来の政党においては、共通の利害目標、共通の行動目標が重視された。極めて「合目的的」な極めて機能的な組織である。もちろんこの場合、その行動目標に合理性があるかどうかは問わない。非合理的な目標を実現するために、合理的な組織形態をとることは充分に可能だ。たとえば、かつての「革新政党」などはそのいい例だろう。しかし、これを追求してゆくと、政治家一人一人の顔や個性は見えにくくなる。組織目標の前に、個人の顔自体を消してしまう、共産党や公明党のような例もある。その逆で自民党のように、政治家ごとの違いはあっても、各人の本音が見えてこない例もある。

どちらにしろ、政治家から個人性が消えざるを得ないのは、近代の「民主主義・代議制」をとる限り避けては通れない。しかし、時代は近代の合目的的な方法論をアウト・オブ・デイトなものにした。そこで起こったのが、新しい政治への要求だ。つまり、政党ではなく、個人としての政治家を見極めた上で、そこに自分の参政権を付託したいという動きである。実は、これが無党派層の本質なのではないか。思想やイデオロギーで選ぶのではなく、顔が見えるヒト、パーソナリティーが見えるヒトを選ぶ。これが、今起こりつつある地殻変動をもたらしているのだ。

月がいつも同じ面を地球に向けているように、今までの政治家は有権者に同じ顔を見せつづけてきた。それに対し、それに飽き足らない層、それでは信頼できないという層が増えてきた。このニーズに旧来の政治家は、全く無力ということではないか。そう考えると、いわゆる「無党派層」の支持を集めて当選したヒトには共通点がある。それは、旧来の政治家が見せていた表の顔だけでなく、パーソナリティーの全てを見せていて、見ようと思えば、背中も頭のてっぺんも見える点だ。どういう政策をやるか、どういう思想を持っているかという以前に、一人の人間として等身大で目の前に見えていること。これは今までの政治家では対応できない。

こういう視点に立てば、イデオロギーやオピニオン的には相違点もある石原東京都知事と田中長野県知事が、同じ範疇のパーソナリティーに入ってくることはよくわかる。小説家、それも高尚な純文学ではなく、ある種時代性を生かした作品を売り物としているヒトである以上、必然的にパーソナリティーはディスクローズされてしまう。さらにそれだけではなく、メディアをウマく使って、自分のパーソナリティーを見せるのにたけているヒトという面でも、小説家という才能はウマくハマっている。パーソナリティーが見えやすいし、さらにそれを見せるテクニックにも長けている。こういう視点を持たなくては、なぜ彼らが圧倒的人気で票を集めたか理解することができないだろう。

ありのまま自分を見せるという意味では、メディアを使わずとも実現する方法はある。実際に、有権者の地平まで降りていって、等身大の自分を見せればいいのだ。元市長から転進した栃木県知事のように、自分の肉体感覚で自分をディスクローズし、それが支持に結びついたヒトもいる。これも、こう考えていけば、全く同じ理由で支持されていることがわかるだろう。方法論は違っても、見え方は同じなのだ。東京都知事選挙のときは、石原都知事に一票を入れたヒトの中には、都議会議員選挙では「市民活動家」の候補に入れたヒトがびっくりするほど多かったことが話題になった。旧来の政治の論理では理解できないこの行動も、今いったような視点を持てば、容易に解釈できるだろう。

さて、このような政治の「超大衆化」の動きは、どうやら日本が先行している感がある。したがってそのための方法論も、諸外国に例を仰ぐことは難しい。たとえば、アメリカの選挙では、80年代からマーケティング手法で政策を決めるようになってきた。候補者は単に政策のヴィークルという考えかたである。この流れでは、自分のオピニオンは持たず、どんな政策であっても、その政策のプレゼンテーターとして最適な政治家が、いい政治家ということになる。これを体現したのが、レーガン大統領だった。このための方法論は確立している。今の日本では、これと正反対の方法論を確立する必要がある。

今日本で求められている、政治の方法論。それは政治家の等身大のパーソナリティーを伝え、それを有権者の間で共有のコンセンサスとする手法ということができるだろう。これは、CIによる企業イメージに対する社会的コンセンサス作りに似ている。したがって、部分的に活用できる方法論は多々あるとは思うが、全体としてはまだ手法がない。これはまた、メディアトレーニングといった、単なるパーソナリティーのブラッシュアップとも違う。たとえていえば、芸よりパーソナリティーそのものを売る、素人芸人的なお笑い芸人の売り出し、演出に似ているかもしれない。

いずれにしろ、このような手法を確立し、有権者の心にフィットするパーソナリティーを発掘できることが、今後の政治手法としては極めて重要になる。ある意味でこれは、近代を支えてきた「議会政治・民主主義」システムそのものが、経年変化で金属疲労を起こし、世の中のニーズとマッチしていないことを示しているのかもしれない。解決策はそっちの方法論からも導き出せる可能性はある。だが、現状の政治システムがもはや意味を失い、無用の長物となっていることは確かだ。そもそも、匿名性を元に、数の論理で判断しようという発想自体が時代遅れなのは、隠しようがないのだから。

(01/03/30)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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