「脱・小市民」のバイブル






どうも日本には「小市民」が多い。多いというより、小市民ばかりだといったほうがいいかも知れない。肝っ玉が小さく、自分の力では何もできない。そのワリに、人が見ていないと思うと「旅の恥はかき捨て」とばかりに、何でもやりたい放題。同じく、頭数だけ集まれば、その勢いを頼りにワガママを通し始める。そして、そうだからこそ、権威をかさにきたがるし、一旦権威を振りかざし始めると、傍若無人さは、とどまるところを知らなくなる。まさに、「甘え・無責任」の権化。この「グローバルスタンダード」の対極にある人間性ほど、日本の大衆の本質だ。人のフリ見て、我がフりなおせではないが、もうちょっと世界に通じる人間になるにはどうしたらいいか、一つ考えてみよう。

どうも昨今、治安の悪さを嘆いている人が多い。そもそも治安は第二次世界大戦後の混乱期が最悪であり、それに比べれば、豊かになると共に一貫して良くなりつづけている。治安の悪さを嘆いていること自体が、ある種の「平和ボケ」なのだ。しかし問題は、治安が悪いという人に限って、ある種の甘えを強く持っている点だ。そもそも地上のオキテとして、自分の身は自分で守るもの。これはどんな動物だってやっている。自分で身を守ってこそ、はじめで居場所ができる。自分の尻も拭けないくせに、一人前の顔をするほうがおかしい。治安の悪さに文句をいうなら、自分で自分の身を守れない非力さに文句をいうべきだ。

小市民はまた、自分と異質なものとの共存が苦手だ。異質な存在が目の前にあることで、自分の存在が否定されてしまうかのごとく、その存在を極度に恐れる。それを認めることで、自分の小さな幸せが壊されてしまうとでもいうのだろうか。オウム真理教や、ヤマギシズムなど、各地で排斥運動が起こっているのは、これが理由だ。しかし、世の中自分だけが正しいということはありえない。十人十色、全ての存在は相対的なのだ。相手を否定するということは、言い換えれば自分を否定することでしかない。もしかすると、自分達で自分達の居場所を築く自信がないからこそ、異質なものの存在を否定しているということなのかもしれない。

さて、こういう人達は無責任な分、何か問題が起こると自分の責任をタナに上げて、他人を勝手に批評しまくるのが大好きだ。本来なら、そんな他人の批判をするヒマがあるのなら、自分の行動や能力をクールにみつめ、問題の自己解決を図ったほうが良い。政治家が悪いのではなくて、そういう政治家を選んだ有権者が悪い。世の中、原因と結果は明白なのだ。また、こういう輩が会社員、特に団塊の世代には多い。日刊ゲンダイといった夕刊紙、週刊ポストといった週刊誌。サラリーマンの好きなメディアは、いつも無責任な批判だけで建設的な提案を主張しないのは、その読者層に合わせているせいだろう。そう考えると、その世代に支持者が多かった組合や共産党も、同じように批判や反対だけで建設的なことを何一つしないというのもうなずけるところがある。

そもそも、こういう人達は「社会」に対し、過剰な期待を持っている。自分でマジョリティーの一員でさえありつづければ、「社会」は悪いようにはしない。大勢についていれば、いつかは「社会」が自分を救ってくれる。そう思っているのではないか。しかし、その「社会」自体、人間の集団なのだ。そのメンバーが全てそんな他力本願だったら、「社会」自体が何かしてくれるということもありえない。しいていうなら、隠れ蓑になる、というのが関の山だろう。みんながみんな、期待だけして貢献しない。これでは問題が解決するわけがない。金をかけずにマージャンをいくらやっても、疲れるだけで誰も儲からないのと同じ。リスクを受け入れずしてリターンはないのだ。

なぜか知らないが、小市民はマスコミに対しても、なぜか過度に期待している。悪いことは、マスコミが悪いメッセージを流布するせい。マスコミがいわなければ、悪い噂が立たないとでもいうのだろうか。二流政治屋の先生は、選挙の結果が悪かったりすると、自分のやってきたことをタナに上げ、すぐマスコミ批判を繰り広げる。別にマスコミがなくっても、悪い話は口コミですぐ伝わるものだ。そういう人に限って、マスコミにでたがったり、マスコミにヨイショして欲しがったりする。けっきょくは「となりの芝は青い」というような、やっかみの域をでるものではない。要はないものねだり。自分でいい話題を提供できないから、それをマスコミのせいにしているだけ。これまたケツの穴の小ささを誇示しているようなものだ。

それだけでなく、小市民なほど、自分が頑張った、汗をかいたと、プロセスを強調する傾向がある。それをことさら強調するのは、成果を出していなかったり、成果を出せなかったりしたからだろうが。けっきょくは負け犬の遠吠えでしかない。時代はプロセスより結果だ。いくら個人的には苦労したかもしれないが、成果がないものは評価できない。苦労したことは認めるし、汗をかいたことは認めても、それは事実を確認する以上の何者でもない。スマイル=0円ではないが、ご苦労さま=0円以上のものにはならない。こうなってしまうのも、結局小市民は工業化社会の中で、工場のラインの一部分として働くことができたからこそ、居場所があったということに他ならない。

今や、どんな名目より実質勝負の時代だ。勝負に勝てなくては、どんな理屈をつけようと、どんなコストをかけようと、全く意味がない。こういう時代では、頼れる権威は自分自身しかない。誰々が言っている。どこそこに書いてある。そんなものはその本人や原点があればいい。あなたがどう思うのか。何をしたいのか。これを明確にし、それを実現するプロセスを構築してはじめて、自分がいる証を立てられる。これは結局、一人になっても「自分が正しい」と信じれるかどうかということ。あるいは、「社会vs.自分」という枠組みで、物事を捉えられるかということ。これができるかどうか、ここから逃げずにいられるかどうか。それが今問われているのだ。

(01/04/20)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる