小泉首相と日本の今後






下馬評と事前工作だけはいろいろと盛んだった自民党の総裁選挙だが、蓋を開けてみれば何のことはない。予備選挙では、小泉純一郎氏の圧勝という結果になった。まあ、一つの党内の選挙であり、公明正大な公営の選挙ではないのだが、ある程度のマスのレベルの声となると、簡単にはコントロールはできないし、自民党みたいに支持者が幅広いクラスターにまたがっている組織では、ほとんど大衆レベルの選挙と変わらない結果になってしまうということだろう。皮肉なことだが、選挙というシステムの持つ公正性、自民党という日本唯一最大の大衆政党のアイデンティティー、そして自民党の党運営の公正性といった、まさに自由・民主主義の政党としての実体が失われていなかったことを証明したことになる。

それは、このところのマイブームのいいかたを使えば「顕教徒」の政党ということになる。これに対しては、個人的にはいろいろ不満もあるのだが、少なくとも自由民主党が議会制民主主義、西欧型近代国家を標榜している以上、逃れられない点ではある。問題は「密教徒」が、「顕教徒」の数の上にきちんとしたリーダーシップをとれるかということにある。小泉さんは政策として改革を掲げてはいるものの、政治手法としてはオーソドックスな「派閥政治家」である。基本的には、伝統的な自民党リーダーである。マスコミが喧伝するほどには、ユニークで斬新な政治家ではない。そもそも脱党して新党を作ったりしなかったことが、なによりそれを示している。

自民党という組織は、何度も述べたように、密教と顕教、リーダーとマスという役割分化が明確にあってこそ、政治組織として機能する。そう考えれば、これはこれで収まりがいい。改革派かどうかという視点ではなく、リーダーとしてのビジョンがあるかないか、という視点からとらえれば、小泉さんは、総裁候補の中ではもっとも元来の意味で総裁にふさわしいといえる。そういう文脈で考えれば、新首相のリーダーシップ次第では、今後一時的には元来の自民党のあり方を取り戻せる可能性がある。しかし、それとて長続きはしないだろう。それは、旧来の利権構造のような顕教徒に対する撒き餌があるわけではなく、与えれるメリットは、単に現状の倦怠感の打破以上のものではないからだ。

対症療法というか、現状の党員の不満のガス抜きという意味では、それなりのメリットはあるが、何ら問題を解決するものではない。ガス抜きは危険水位を下げるものではあっても、そのガス抜き穴では抜けないぐらいに水位の上昇が激しくなれば行き詰まってしまう。今後の政治日程の中で、参院選挙や地方選挙は「現状よりはマシ」というレベルにはなると思うが、本質が変わるわけではないし、それは小泉首相でも不可能だろう。はっきりいってしまえば、大衆政党の本質として何でも飲み込んでしまう自民党のやり方では対応できないところに、世の中がきてしまっているからだ。本質的に「改革」するには、ここにメスを入れなくてはならない。

それはまさに、二つの経済、二つの日本の対立である。基本的にこの対立は、「自立・自己責任」と「甘え・無責任」という人間性の対立にまでいってしまうのだが、明らかにメンタリティーが違うこの両者の代表が政策論争を闘わせる必要がある。そして、その論争の結果として、どういう政治路線をとり、どういう方向に日本を持っていくか、を決めてゆく必要がある。「競争原理」か「悪平等」か。「小さな政府」か「大きな政府」か。「自助努力」か「社会保障」か。「民営化」か「国営化」か。「規制緩和」か「公共投資」か。今クリティカルになっているあらゆる問題は、ここにルーツがある。

今までの冷戦構造の中では、この密教徒と顕教徒の対立が、ある種イデオロギー論争の陰に隠れ、明確な形にはなっていなかった。だから、自民党のようなその両者を包含してしまう「大衆政党」が成立しえたのだ。だが、もはやその時代ではない。これからは、この対立が前面に出たカタチで政治が動いてゆくだろう。「甘え・無責任」のメンタリティーという意味では、公共投資だよりで競争力を持たない地方の土建業者などは、前にもかいたように、所得の悪平等的な再配分を求めている「共産主義者」そのものだ。こんなに価値観が一緒なのに、イデオロギカルな「名目」が違うだけで、表面的に対立してしまうほうがおかしいではないか。

これは、都市でも同じだ。都会に住み、企業に勤めるビジネスマンが、全て競争指向で市場原理を信奉しているわけではないことは、実際にビジネスをやっている人なら誰でも実感できる。コアコンピタンスもなく、付加価値も提供できず、価格競争だけしかレゾンデートルのない企業はゴマンとある。けっきょくは「負け組」になるのだが、こういう企業は、そもそもそこに勤めている人間が「寄らば大樹の陰」という指向が強いからこそ、競争力がないのだ。こういう企業の「ビジネスマン」は、「甘え・無責任」の共産主義者だ。旧東欧圏では、共産主義の時代「寄らば大樹」の企業がたくさんあったことを考えれば、そういう企業が有り得ることは理解できるだろう。

「自立・自己責任」と「甘え・無責任」、この密教と顕教の対立が、これからの政治の主軸とならなくてはならない。数からいけば、顕教徒が多いことは確かだ。しかし、寄らば大樹の大樹がなくなってまでぶら下がろうというバカが、それほどまでに多いとも思えない。だからこそ、きちんと論戦を張ってゆけば、充分対立構造が作れるだろう。自民党の一部、自由党、民主党の一部といったところに比較的多い、市場原理の密教徒が支持する政党。地方の自民党や公明党、共産党、組合系の民主党といったところに比較的多い、悪平等共産主義の顕教徒。この闘いは、もちろん密教徒が勝たなくては日本は潰れてしまう。

これからは、この対立を明確に打ち出し、日本がどちらにいくのか、日本をどうしてゆくのかを選択する時代がくる。玉虫色は許されない。自分はどちらを選ぶのか、どちらのために闘うのか、主張をはっきりさせなくてはならない。いざとなった場合、日本を二つに割るぐらいの意気込みが必要だろう。この枠組みの中では、自民党がどうのこうの、民主党がどうのこうのといった問題など、どこかへ消し飛んでしまう。このぐらいの「国を挙げた」議論をしてはじめて、日本が世界の中でそれなりのプレゼンスを持つ国となれる。このプロセスは、日本が世界の中でアイデンティティーをもてるかどうかを試される機会でもあるのだ。


(01/04/27)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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