鳶は鷹を生まない






最近なにかと「教育」に関する議論が盛んだ。人間は学ぶ動物である以上、人間であれば誰でも「教育」について語ることができる。だから教育の話は、誰でもそれなりに参加し、一端のことが言える気がする。そんなこともあって、百家争鳴状態になっている。教育制度に関する議論ならば、まあ法律・行政制度に関する問題なので、何をいっても一応はかみ合い議論になるが、こと「教育における家庭の役割」ということになると、議論にすらなっていない状態だ。基本的に、教育における「家庭の役割」自体を放棄している「無責任」な人々が多く、そういう人達が自己正当化のために、「議論のための議論」を仕掛けているからだ。この問題について考えてみたい。

なぜ、教育における家庭の役割について「無責任」な人達が多いのか。そもそもこの問題は、親にとって子供はどういう存在なのか、ということから考える必要がある。「無責任」な人達は、自分の人生をもっと努力しなくてはいけないにもかかわらず、それを放棄し、自分の夢を子供に託している。ここで、教育における家庭の役割を放棄しているのだ。しかしこれは、自分の向上心のなさをゴマかすための逃げでしかない。親も一人の人間としてこの世を生きている以上、自分の夢は自分で実現するのが筋だ。それを、子供に過剰な期待を背負わせて帳尻を合わせようとしている。まるで筋違いだ。子供に甘えるなといいたい。

子供にいくら学校教育を与えても、それで立派な人間になることはない。そうではなく、夢を与えてはじめて、人間の器をを大きくできる。そのためには、親自身も夢を持つことが必須だ。自分に夢があるならば、それを実現するには、子供に勉強させる前に、自分が勉強する必要があることがわかるはずだ。そういう親たちは、本当夢を見たこともないし、本当に「学んだ」ことがない。「学ぶこと」は、決して学校の問題ではない。生涯かけて自分を磨くために行うことが、勉強なのだ。受験勉強のような知識の詰め込みを勉強と思っているようでは、とんだ勘違いだ。そんな「勉強」は、時間とエネルギーのムダだけでなく、人間性も損ねることになる。

どうもこれは、カタチや権威から入りたがる気風と関係ありそうだ。カタチだけマネで、マスターした気になるのが日本人の悪いところ。カタチはあくまでも手段。自分のココロから入ってはじめて道を極められるのだが、そういう「本格派」は日本人では少数派だ。議論でもそうだ。自分の外側の権威で議論を正当化しようとする人が多い。しかし、誰々が、どこそこが、という引用では説得力がない。特に海外では全く相手にされない。日本人が国際化できないのは、ここに問題がある。グローバル化には、なによりも「自分がそう思う」と語れる勇気が欠かせない。そのためには、人マネをしないで、物事を解決できる力を、小さいときから養うことが何より大切になる。

自分がしっかりとせず、全て外部任せ、他人任せ。長いものに巻かれてはいけない。そういう「他力本願」な生きかたをとる限り、子供を「教育」することなどできない。受身で他人にあわすのは簡単だ。しかし、その戦術を取る限り絶対にその相手を超えられない。永遠のナンバー2が関の山だ。しかし、そういう二番煎じのフォロワーを許さないのが、グローバルスタンダードとなっている。自分が正しいと思ったら、みんなと違っても付和雷同せず、NOといえるのが国際人だ。人生は一度。勝負しなくては意味がない。誰かの亜流で生きるのは、まさに無駄にエネルギーを使うこと。人生の使いかたとしては「愚の骨頂」であることを忘れてはならない。

おなじコトは、「しつけ」は禁止さえすればいいと思う風潮にも現れている。今やマニュアルに書けないような、あらかじめ予期できない問題が起こる時代だ。そういう状況にウマく対応し、答えが出せるかどうかが問われている。これは何でも禁止してしまうしつけでは、決して養えない能力だ。結局、自分を律するのは自分しかない。セルフコントロール力、セルフマネジメント力の有無が重要になっている。茶髪でもピアスもテレビゲームも自己責任でTPOをわきまえ、没入せずウマくたしなむタイプの方が、解決力は高い。そう考えれば、けっきょくはこの問題も、「自立・自己責任」と「甘え・無責任」の対立ということなる。

ヒトは生まれながらにして人間なのではない。切磋琢磨して人間に成るのだ。一人前の人間、器を持った人間になるためには、不断の努力が要求される。これが「生涯教育」だ。経験を繰り返し、その中から発見することで、自分の強み・弱みをきちんとわきまえる。そういうセルフコントロールができてこそ、「人間」に成れるのだ。そのためには、何よりも自分で問題を捉え、自分で解決できる能力を持っていることが前提となる。そもそも、親がそれをできないようでは、子供に教育を語る権利などない。顔を洗って出直してもらいたい。まず、親が一人前の人間であること。これが子供がマトモな人間に育つ最低条件だ。

子は親に似るもの、それも悪いところほど似るものだ。親が「一人前」なら子も「一人前」だが、親が「二流」なら子も「二流」でしかない。そういう面では、どうやっても親子はそっくり、瓜二つだ。だからこそ、親がまず子離れしなくては、子は親離れしない。大人である親がまず自立することが、けっきょくは子供を育てることになる。子供の教育を語る人に限って、自分自身のアイデンティティーが確立していない。これでは議論はいつまでたってもどうどう巡りでしかない。鳶は鷹を生まない。鳶の子は鳶。どこまでいっても親を超えることはない。それより鷹を生みたいなら自分が鷹になることが先決だ。それが自己責任というものだ。


(01/05/04)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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