平和ボケとスキャンダル嗜好






年末年始もゴールデンウィークもお盆休みもそうだが、基本的に経済活動が全国的に「ひと休み」に入る時期には、政治経済のニュースも一休みというのが日本の常である。おいおい、新聞記事も、テレビのニュースやワイドショーもネタに困ってくる。正月を前にした年末恒例の記事として、フライングして餅を喰い、のどに詰まらせて老人が死亡したり、スンデのところで家人の機転が利き助かったりという話題が登場するのはそのいい例だろう。それだけでなく、年末でいえば「今年の重大ニュース」みたいな企画モノが登場するのも恒例である。ワイドショーでいえば「今年の珍ニュース」みたいなものである。元をただせばそういうことなのだが、ここ数年、こういう時期のニュースとして取り上げられるものに特徴的なものがある。それは、「凶悪事件」報道である。

たとえば去年のゴールデンウィークには西鉄高速バスのバスジャック事件があり、延々と実況中継が行われた。また、世紀替わりの年末年始には、一家四人惨殺事件がこれでもかこれでもかと繰り返し伝えられた。そして、今年のゴールデンウィークに至っては、待ってましたとばかりに、「続発する凶悪犯罪」である。この手の事件の報道に関しては、日頃「良識の府」を自称する大新聞やNHKニュースも、民放のワイドショーのトーンとほとんど変わらなくなってしまう。待ってましたとばかりに、これ見よがしに煽る報道になる。こういう報道に特徴的なのは、「増える凶悪犯罪」と主張するかのようなスキャンダラスなトーンである。よく見たり聞いたりすれば、確かにそう積極的に主張しているわけではないのだが、あたかもそう思わせる手口は、まるでインターネットの悪質な通販業者のようだ。

そもそも、凶悪犯罪は昔に比べれば減っているのだ。これは、データを調べれば明確なことだし、多くの良心的な論者がいろいろな機会に述べていることだ。殺人犯の数を見てみれば、戦後一貫してあらゆる階層で減ってきていることがわかる。あらゆる階層で昭和30年代に比べてその数は半数以下になっている。特に10代、20代という若年層では、ほぼ1/10になっている。この結果、かつて戦後の復興期には殺人犯といえば10代・20代若者というのが相場だったのに、いまや殺人犯の主流は40代・50代の中年層だ。このように少年の凶悪犯罪は、一部の方々の期待とは裏腹に、明らかに減っている。確かに少年の刑法犯の件数自体は増えている。しかしそれは、主として万引きや自転車泥棒のような決して「凶悪」ではない犯罪の件数であり、ごっちゃにしてはいけないものなのだ。

もっというと、これ自体絶対数が増えたわけではない。このような比較的軽微な「犯罪」は、専門用語でいう「暗数」が多いところに特徴がある。スピード違反、駐車違反を考えてもらうとこれはわかりやすい。もともと、この手の「違法行為」はおびただしい数が行われている。実際に摘発されるのは、あくまでも「氷山の一角」でしかない。取締りが厳しくなると、件数が増え、甘くなると減る。これは、交通安全運動期間中とか一斉取締が行われると、交通違反の件数が増えることからもよくわかる。要は、世の中が平和になって事件が減り、警察官をこういう軽微な犯罪の摘発に廻せるようになったというだけだ。かつて過激派の学生運動が華やかだったころは、多くの警察官を公安関係に廻していたが、いまやそういう人達が余っていることを考えれば、この犯罪数の増加も合点がゆく。

そのワリには、「少年」の「凶悪犯罪」が増えている気がする、という議論もあるかもしれない。しかし、ここにトリックがある。増えているのは犯罪数ではない。「少年」の「凶悪犯罪」が話題になる回数なのだ。大衆はそもそも「三面記事」が好きだ。それはなによりスキャンダラスで猟奇的であり、恐いモノ見たさで好奇心をくすぐると共に、自分の平和さを再確認する手段となるからだ。世の中に多種多様な凶悪事件が多かった頃は、いろいろ話題にも事欠かなかっただろう。しかし、安定成長の豊かな時代になると、かつてのように「貧しさゆえ」に引き起こされた凶悪事件はすっかり影をひそめてしまった。そこでその隙間を埋めるべく、ことさら「少年」の「凶悪犯罪」が取り上げられるというだけのことである。

それでもなおかつ、かつてより事件が「凶悪化」しているのではないかという議論があるだろう。かつての少年殺人犯といえば、強盗殺人や強姦殺人、ケンカの果てに相手を殺してしまうなど、殺意そのものがあまりに単純明快であり、事実経過以外記事にもしようがないような、単純、衝動的なものが多かった。おまけに今の10倍も多かったのだ。調べてみればわかるが、少年がケンカで殺人なんて事件は、新聞に載ってもベタ記事がいいところ。記事にすらならないものも多かった。そういう事件は豊かな時代となるとともに、すっかり陰を潜めた。その分、昔の基準からすると動機が不明確な「興味本位の殺人」的な事件が相対的に目立ってきたということだ。実は、こういう事件は昔からあり、けっこう新聞ネタとしても取り上げられていたことも忘れてはならない。

要は、マスコミとは大衆迎合的なもの、特に三面記事はスキャンダラスでなくっちゃ成り立たないということなのだ。かつては世の中が飢えていたし、貧しいがゆえのネタみや恨みもあふれていた。その分、スキャンダルは世の中に満ち満ちていた。三面記事は、それこそネタの整理が大変なくらいであった。しかし世の中が平和になると、そういう猥雑で猟奇的な事件が少なくなる。その分、数少ない事件をこれ見よがしに取り上げ、必要以上に問題を大きくし、スキャンダラスにしているだけなのだ。そういう意味では、ジャーナリズムは単に大衆の鏡であり、他人のスキャンダルに酔いしれる人々のアホさ加減を写しているだけなのだ。これがわかれば、世の中は単純なこと。そういうマスコミに踊らされているあなたは、同じ穴のムジナですよ。



(01/05/11)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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