「教科書問題」と言論の自由






扶桑社の教科書が検定に合格して以来、またぞろ「教科書問題」がかまびすしい。特に教科書問題を交渉のカードとすることに長けた韓国が、国内問題もからんでまたぞろ参戦してきている。個人的な歴史観としては必ずしも「作る会」の歴史観に賛成するものではないし、どちらかというと韓国側の歴史観の方が近い部分も多いのだが、ことこの問題は、歴史観の中身としてどちらによりシンパシーを感じるかでは片付けられない問題を含んでいる。それは、そもそも「言論の自由」を大事にするかどうか、という点である。ぼくは「作る会」と歴史観そのものは一致しないものの、「作る会」の教科書を世に出すことに賛成しているのは、言論の自由をなにより大切にしたいからである。

言論の自由においては、手段の対称性がなにより重要だ。同じ場、同じ方法で議論を戦わせること。それは、言論の自由の主張自体が、そういう環境を作ることを目的としているからに他ならない。言論の自由とは、規制や強制により「保証」させるようなものでは断じてない。こうなってしまっては本末転倒だ。言論の自由を主張する側は、自分の自由を主張するのと同様、相手の自由についても、全く同じ形、同じ権利で保障しなくては意味がないのだ。したがって、言論の自由のために最大限できることとは、相手と同じ機会、同じ手段を確保することだ。その意見がどんなものであっても、それをさしとめよう、ねじ曲げようというのは、言論の自由から逸脱している。

そう考えてゆくと、こと教科書問題については大きな矛盾がある。公権力により、自分と違うオピニオンに立つ教科書を修正させたり、発行を停止させようとすることは、それ自体、言論の自由を踏みにじる行為である。たとえ主張する側のオピニオンの方が「言論の自由」を主張するものに近く、告発されている側のオピニオンが「言論の自由」に対してネガティブであったとしても、権力による介入を主張した時点で、その正当性は失われてしまう。それはもはや、言論弾圧を求める声そのものだからである。そういう主張をすることで、もともと言論の自由を信奉しているのではなく、自分の意見を主張するのに都合がいいからこそ「言論の自由」を振りかざしているだけでしかない。

そもそも、本当に言論の自由を主張するのなら、いろいろな教科書があっていいのだ。A社の教科書が気に食わないものであっても、それは他人の意見である。それがいやなら、自分の主張に沿った教科書を作ればいい。違うオピニオンに基づく教科書が並立し、第三者がそれを客観的に比較・評価できる環境を作ってはじめて、対等な議論が可能になる。これが言論の自由である。権力の介入を主張することは、両刃の剣だ。その矛先が自分に向かう可能性も五分五分である危険性を忘れてはならない。ここで大事なことは、「作る会」の教科書をどうこうすることではない。発行禁止でも修正でも、それは言論の自由を踏みにじることになる。必要なのは自分の主張に沿った教科書を作って発行することだ。

ある意味で、言論の自由を支えるのは市場原理である。市場原理、競争原理が担保されていることが、言論の自由が守られていることと同値になる。対等な形で違うオピニオンに基づく主張が、誰の前にも並列して示される。大事なのはここだ。あとは、選ぶ側が決めればいい。言論の自由とは、選ぶ側が自分の好きなものを選べる環境と言い換えることもできる。ここで市場原理、競争原理がキープされているからこそ、フェアなのだ。ここで論理の腸捻転が起きてしまうのは、教科書制度そのものの中に、「検定」という、そもそも言論の自由と相反する要素が入っているからだ。

人間の考えかたとは、百人百様だ。それを一つにそろえるというのは、言論統制であり人権の侵害だ。教科書とは考えかたを指導するものである。考えかたが違う以上、教科書も百人百様でなくてはおかしい。いろいろな主義主張に基づく教科書があり、その中から自分の主張にあったものが選べることが望ましい。歴史の解釈は一つではない。歴史上起こった事実は一つかも知れないが、それは歴史ではない。起こった事実を解釈してはじめて歴史になる。解釈は人によってちがって当然だ。だからこそ、言論の自由が保証されなくてはならない。

だからこそ、自分と違うオピニオンに基づく教科書はあって当然だし、それ権力や各種の圧力、はたまた検定制度そのものを使うことで規制しようというのは間違っている。そういう主張をすることは、いかに言葉尻においては、自由、民主主義、言論の自由を語り、「進歩的な価値観」の持ち主であることを装っても、結局その本質は権力主義的であることを図らずも示している。オピニオンそのものは、多様なのだからどうでも良い。大事なのは、言論の自由、言論の多様性を守るフリをして、その実他人の言論を権力により圧殺しようとしている行為だ。言論を内容により分けた瞬間、言論の自由は消滅する。このことをよく考えてもらいたい。



(01/05/18)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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