外資系への甘え






このところ「外資系が元気」という論調によく出会う。最高益を記録した日産のように、経営不振に陥った「負け組」国内企業を「系列化」し、経営者を送り込むことで再建した事例も多い。また保険業界のように、直接経営破綻した企業を買収して拠点化する事例や、不良債権を購入して活性化し利益を生む資産として生まれ変わらせる事例も多くなっている。まるで、そもそも日本人は経営センスがなく、そういう日本人がやるから経営破綻し、経営センスのある外国人がかじ取りをすればうまくいくと言わんばかりである。

確かに現象面だけしか見なければ、そういう見方ができてしまうことも確かだが、それはあまりにレベルが低い。大衆レベルの表層的な見方でジャーナリズムが勤まるか、という議論もあるにはあるが、それはここでやろうとしているテーマではない。日本企業対外資系企業という単純な対比が、今となってはあまりに的外れになっていることは、ビジネスに関るものにとっては常識だ。Two Economiesと呼ばれるように、そもそも日本企業そのものが二層分離している。調子のいい日本企業は、日本企業である前に、日本に進出する外資系とおなじグローバル企業なのだ。

もちろん、アメリカにもヨーロッパにも「負け組企業」はある。しかしそういう企業は日本にはやってこない。かつて単体で日本に進出していたとしても、本国での業界再編の波にさらされ、いつの間にかカンバンが書き換わっていたりする。世界レベルでみれば、今、企業が評価される基準は、グローバルな競争力があるか、そうでないかという違いでしかない。さらに、グローバルな企業には国籍などない。国の保護や規制に期待するモノではないからだ。そう考えてゆけば、この問題は日本における企業間での「グローバル競争力」の勝負と考えることもできる。

いままでは、日本は悪平等、共産主義の国だった。だから、企業も旧東側の国営企業と同様、競争原理ではなく、既得権益と規制による保護を前提としていた。これでは真っ当な経営感覚が生まれるわけがない。当然、多くの企業が競争力を持たない「甘え体質」に染まってしまう。実際、日本企業の多くは、競争力も独自のコンピタンスも持たない、「延髄から下」しかない存在だった。逆に言えばトヨタやソニーのように、そこに安住せず、敢えてグローバルな競争環境の中に進出していった企業のマインドの高さをホメるべきであろう。

もっといえば、そういう「既得権益」を基盤とする限り、企業にリスクはない。守られた利権を前提に、どれだけ日銭をかせぐか、という面では才覚の差も出るし、そこがそれなりに競争にはなる。だから、現場のオペレーション、キャッシュフローをかせぐことについてはそれなりに人材も生まれてくる。だが、その一方で経営判断、会社のかじ取りは必要なく、常に吹いている「利権という順風の神風」に乗っかっていればすむ。これでは、コーポレートガバナンスという発想が生まれるはずもない。

本筋からいえば、そういう企業も競争にさらされるとともに、過去の所行を自己批判し、競争力を持つ強い体質に自己改革することが求められている。実際、市場経済化が進んでいる中国では、もと国営企業ではあったものの、市場経済化とともに自己改革をなしとげ、競争力をもって民営化をなしとげたところもある。その一方で、形式的には市場経済であった日本では、実質的な共産主義の国営企業は自助努力では体質改善を成し遂げられず、その結果、手足としてのみ評価され、外資系企業により救われているということにほかならない。

ということは、けっきょくこの問題も、例の「自立・自己責任」と「甘え・無責任」の問題に行き着くということになる。自立している人間が集まり、それをもとにマネジメントが行われている企業は、企業自身も自ずと自立し、グローバル企業としての競争力を持つ。一方甘えている人間が集まっている企業は、企業自身も甘え体質になり、自浄作用が働かなくなる。そのあげく、解決策を自分で提示することができなくなり、体質改善自体も、競争力を持つ外部の企業に依存して成し遂げることになる。まさに「外資系企業に甘えている」ことにほかならない。なんとも嘆かわしいこと。まったく、「バカは死んでも治らない」ということなのだろうか。



(01/05/25)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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