演繹発想の終焉






すでにマスコミをにぎわせているように、ハンセン病訴訟の判決では国が敗訴し、すったもんだのあげく、首相判断で上告を断念した。誰もがモロ手を上げて、この選択を歓迎しているように、一般市民の感覚からすれば、この判断は、人道上の問題、人権の問題を語るまでもない、当り前の常識問題の範疇である。首相の決断は支持されているが、一般の人々が考えている以上に大きな問題であり、政府・行政のありかたをひっくり返すような重大な決断であることは、理解しがたいかもしれない。通常の感覚で、通常の判断をしないのが官僚制であり、霞ヶ関の常識なのだ。そして、シャバの常識を霞ヶ関に持ち込むということは、官僚たちにとっては、かつてなかった激震を意味する。

そもそも、官僚機構は、法律主義、前例主義で成り立っている。予想される条件に対してどう対応するかは、前もって決められた法律を基準とし、現実よりも法律の規定を優先させる。法律で規定されていないところについては、過去どういう対応をしたかという「前例に基づき、それと矛盾がないことを基本に、「政策の一貫性」を遵守する。一応、官僚も人間なのだが、法律を作るときはいざ知らず、業務を執行するときには、何も自ら判断したり、道を切り開いたりする必要がないようにできている。これではまるで、コンピュータのプログラムと同じだ。官僚機構の機能は、基本的にはシリコンの回路でもできてしまうということだ。人間である必要がない。

すなわち官僚機構の基本は、演繹的考え方、論理的考え方にある。ということは、官僚機構をブラックボックスと考えると、インプットよりアウトプットの方が情報のエントロピーが減少するということがありえない。すなわち、前もってインプットされた条件より、付加価値の高いアウトプットは出てこないということだ。こう考えると、官僚制の問題点がよくわかる。官僚機構は、新しいことができない。官僚機構は、知の縮小再生産でしかない。よく言われるこういう問題は、本質的に官僚機構のダイナミズムの基本である、法律主義と演繹的考えかたに帰着することができる。一旦、法律というプログラムを入力し、それに従って処理するものである以上、おなじことの繰り返ししかできないのだ。

こういう、無判断、無舵取の状態でも、済んでしまう場合がある。それが、右肩上がりの高度成長期だ。順風の強い神風が常に吹いているのだから、舵取りなどいらない。何もしないのが一番というわけだ。だから、近代以来追いつき追い越せの高度成長の波に乗ってきた日本は、官僚制がはびこっても、誰も問題視しなかっただけのことである。しかし考えても見てくれ。人間というものは、元来演繹的なものではない。不連続に「突如思いつく」から人間なのだ。コンピュータと人間の違いはここにある。しかし、この不幸な高度成長の連続が、人間らしい「発想力」に劣るが、コンピュータ的な「演繹力」にだけ長けた知的障害者に、権力と地位を与えてしまうことになったのだ。

人間が人間であるのは、基本的には、合理的な判断、論理的な判断に従って行動するのではなく、至って気分的に、ヒラメキや思いつきで行動するからこそなのだ。既定の事実から「ロジカル」に引き出せる結論なら、機械に出させたほうが良い。そのほうがずっとスピーディーでコストも安いし、おまけに変な思い込みや、欲に目がくらんだ我田引水がない分、結論に妙なバイアスがかかることもない。合理性、論理性についてはコンピュータとネットワークシステムでいくらでも最適解が得られるようになった今、再び人間はその原点に戻る必要がある。

こう考えてゆくと、人間を扱う学問もどうもおかしい、経済学やマーケティング学では、人間を合理的な存在としてとらえ、合理的な判断により行動を決定するものとしてモデル化している。だが、人間はそんなものではない。確かに、貧しく、飢えている状態では、「背に腹は変えられない」ゆえ、結果としてその行動は「合理的」に分析可能なものに見えるかもしれない。だが、豊かになったら違う。一人一人、行動要因は気分的に違う。当然、商品の購入要因も百人百様。理論で分析できるものではない。これもまた産業社会の高度成長期のみに見られる過渡的な形態だ。産業社会の終焉とともに、過去のこういう経済学、経営学の理論が通用しなくなってきているのも、同じ要因に基づいている。

つまり、高度成長をベースとしていた産業社会においては、感覚ではなく、論理をベースにした「得意な人間」がそれなりの評価を得ていたことに問題があるのだ。いわば、EQが低い人間も、勉強だけできれば「成り上がる」ことができ、それなりの社会的評価を受けられたということだ。そしてその代表が、官僚であり学者だということになる。そもそも論理はコンピュータでも出来るのだから、本人の努力次第でどうにでもなる。しかし、感覚はそうはいかない。そもそも感受性豊かなDNAに恵まれたいた上に、その感受性を育む体験を重ねることができる経験を積まなくてはならない。これは、付け刃でできる「勉強」の世界とは180度違う世界だ。まさに、秀才の時代と天才の時代の違いだ。

これからは「心の豊かさ」の時代である。そういう時代を支え、牽引してゆく人達は、誰よりも「心が豊か」な人間でなくてはならない。それは、今までの産業社会でエリート面していた、演繹的な論理を勉強により見につけた「秀才」ではありえない。生まれながらにして豊かな心をもち、それを成長の過程で人一倍研ぎ済ませ、磨いてきた「天才」でなくては勤まらない。これは、偉い・偉くないの問題ではない。人に与えられた役割、その人の持って生まれた「道」の問題なのだ。これからの時代は、一人一人が天から与えられた道に気づき、それをわきまえ、その道をつきつめるべく精進することが必要になる。たまたまそれがリーダーであったとしても、それは天の与えた宿命の一つでしかない。そう考えてゆくことが、これからの平等観を理解するためにはかかせないだろう。


(01/06/01)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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