「国民国家」からの脱却






「国」とは何か。われわれは、あまりに無定見に「国」という概念を使っているのではないだろうか。21世紀を迎えた日本では、この問題は特に重要になる。そもそも日本人は、国家観が曖昧である。長い日本の歴史の中で、国とは、自分の生活の延長上にあるものではなく、お上が「与えてくれる」ものでありつづけた。その結果、いろいろな調査の結果に見られるように、国民の持つ国家への帰属意識はいちじるしく低いのが特徴となっている。国民が責任を持ち、自らの意志により作ってゆく「近代国家」の国家観からは程遠い。

その代わりといっては何だが、ご都合主義というか、「親方日の丸」と呼ばれるように、寄らば大樹の陰で自分が甘える対象としてのみ国家をとらえる傾向はいちじるしく強い。国家は勝手に存在するものであるときと同時に、自分の都合のいいときには都合の良い存在でもあるのだ。本来自分で果すべき責任を押し付けることで、無責任を許される紋所としてのみ、国家はとらえられている。日本におけるナショナリズムは、理性的なものとは程遠く、無責任集団が暴走する「マス・ヒステリー」の様相を示すのはこのためだ。

その一方で、グローバルレベルでは国家観のパラダイムシフトが起こりつつある。近代の国家観の基本になっている「国民国家」は、あくまでも産業革命以降の社会の構造に根ざしたものだ。その意味で、極めて20世紀的、産業社会的な存在だ。それに対し、21世紀の社会の基本は、グローバルな情報社会になる。そのような社会の求める国家像は、当然20世紀の「国民国家」とは対立するものとなる。いまだに近代国家以前のレベルにとどまる日本人と、ポスト近代国家を目指す国際的な動き。このズレが拡大している今だからこそ、「国」という概念を捉えなおす必要がある。

ポスト産業社会のパラダイムシフトは、基本となる人間類型、行動様式が変化するところがポイントになる。20世紀型の、産業社会的、国民国家的人間。21世紀型の、情報社会的、グローバル国家的人間。それぞれの人間のあり方自体がまた、国家のあり方を規定してしまうところが特徴的だ。国家が即国民国家であることを前提に、その存立基盤の違いが主たる国際対立だったのが20世紀。冷戦構造のようなイデオロギー、南北対立のような経済格差。全てそういう構造をもっていた。これに対し、これからは20世紀的な国家を求める人々と、21世紀的な国家を求める人々との対立軸が、世界の対立構造の基本になる。守旧派と改革派、保護派と市場派、といった対立は、実はこの構造を先取りしたものだ。

たとえば、ソフトバンクの孫さんのアタマの中にある世界地図には、間違いなく国民国家的意味での「国境」はない。もちろん、その地図には何らかの境界線はある。だが、そのエリアを塗り分けているのは、旧来の国家観ではなく、地域別の金利差やリスク差といった経済的ファクターだけだろう。実際、彼には「国籍とは絶対的なものではなく、その時その時に応じて、メリットやデメリットから選ぶものになるだろう」という名言もある。国民国家的な桎梏から完全に自由な発想ができている。その意味では、21世紀型人間の嚆矢と言うこともできるだろう。

実際、いろいろなところでこの構造的対立は頭を持ち上げている。日々のジャーナリズムをにぎわせている論点も、この対立に基づくものが多い。規制緩和、競争原理が当然のように語られている。その一方で、セーフガード発動を主張する人達がいる。彼らは、どこを向いているのか、誰を向いているのか。こういう人達が、国家に対し何とかしてもらおうと働きかける。こういう保護を求める生産者は、自分の都合だけを主張し、消費者のニーズやメリットは眼中にない。だからこそ、国の方を向くのである。国民国家的発想の枠内では、問題は見えてこない。ある種セーフガードも是認されてしまう。そうではなく、それを超えたところに、この問題が潜んでいる。

このような「国家観」の対立軸は、今まで見えていなかった。何度も引用した例だが、中国への侵略行為があったかなかったかという認識と、日本の戦争行為の正当性という主張は、元来軸が違うものである。「侵略はあったけど、戦争である以上正当」という軍国主義的主張や、「侵略ではないが、許しがたい」という感情的主張があってしかるべきだ。しかし、それが出てこないで、単純に「侵略はなく正当」「侵略であり不当」という単純な二分法になってしまっていた。これはあくまでも、近代主義的な国民国家的な発想を固定した上で議論していたからだ。

しかし、「国家観」の対立軸が存在しなかったわけではない。最近の改憲論がいい例だろう。かつては、教条主義的な平和主義護憲派と、復古主義的な軍国主義改憲派しかいなかった。この時点では、国家観は一元的だったからだ。しかし、90年代に入って風向きは変わった。積極的に平和を主張するために、曖昧な条文を改めようという平和主義的な改憲論や、国際貢献のためにきちんと責任をとれる国にするために、軍備も持てる範囲を明確にしようという改憲論も出てきている。これなど、国家論のパラダイムシフトを前提に考えるとわかりやすい。

EU統合。民族対立。情報化によるグローバル化。宗教対立。20世紀的な枠組みでは把握できない動きが、地球上の構造変化の主要なモチベーションになってきた。パラダイムシフトは、着々と起こりつつある。自立、自己責任に基づく国家。自助努力と市場原理で運営する、小さな政府。甘え、無責任に基づく国家。保護主義と親方日の丸で運営する、大きな政府。そのどちらを求めるのか、そのスタートラインが全てを決める。こういう視点に立ってはじめて、公共事業による所得の再配分=悪平等化を目指す勢力である、官僚と族議員の集団、。きわめて20世紀的な国家観に基づく共産主義者であることがわかる。

今求められている改革とは、まさに、国民国家から脱皮することに他ならない。だからこそ、旧来の「国家観」にとらわれている限り、ブレークスルーはありえない。改革を指向しても、けっきょくジレンマに陥り、「総論賛成・各論反対」になってしまうのはこのためだ。だからこそ、「国家観」のパラダイムシフトが見えているかどうかで、大きく変わってくる。日本においては、国民国家的な視点がかけていたことは、確かに近代主義の時代においてはマイナスだった。しかし、どうせ国家観は変化するのである。それならば、過去はさておき、新しい21世紀型の国家観をきちんと身につければいいだけのことではないか。それは、決して難しいことではないだろう。


(01/06/08)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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