甘え・無責任な連中を「アカ」呼ばわりしよう






もはやライフワークとさえいえる、自立・自己責任で能動的な人間と、甘え・無責任で受動的な人間という、二種類の日本人の対立構造の問題。いいかたを変えれば、強いものの一人勝ちをフェアと考えるか、常に勝ち負けをチャラにして、均等割りにするのをフェアと考えるか、という対立でもある。これが、外部に向かってグローバルに競争をし、その中で勝ちぬいてこうという「外向き」の戦略と、内部で利権を守り、なるべく規制や保護をキープしていこうという「内向き」の戦略の違いをもたらす。

前者は、都市部やグローバルな企業・企業人を中心とし、自由競争、市場原理を大切にする。後者は、地方や官僚、親方日の丸体質の企業やその労働者を中心とし、所得の再配分による「共産主義」を大切にする。ここで問題となるのは、後者の人達の中に、競争原理に対して「思い込みの恐怖」を抱いている人達がいることだ。それは、そういう人達が、競争する土俵を一つと考えていることによる。共産主義のためには土俵は一つなのだが、市場主義はそう言うことではない。この思い違いが、話はややこしくする。実は市場原理では、土俵の数がたくさんあるのだ。

競争原理に立つ場合、あるドメインについては、一人勝ち、総取りが前提となる。そこに競争劣位のものが参入するのはムダ以外のなにものでもない。だが、一人勝ちが可能なのは、そのドメインだけである。あるドメインでの勝者が、他のドメインで優位性を持つ保証はない。それどころか、最適化ということを考えると、あるドメインでの「勝者=最適化された存在」が、他のドメインでも優位性を持つとは考えにくい。さらに、競争原理が多様性を前提としている以上、ドメインそのものが一つしかなく、それが絶対のものとなることはありえない。ドメインの数は、理論的には参加者の数だけ考えられる。

それが競争原理の前提である。その市場への参加者が、それぞれ自分の強い領域で自助努力をすればいい。そこでそれぞれ勝者となれば、それこそ、百人いれば百のドメインが成立することになる。決して、一人の勝者だけが得をして、あとのみんなが不遇をかこうという構造ではない。競争原理の本質は。その逆なのだ。もちろん、各ドメインの大きさや、その経済的価値は均等ではありえない。しかし、それぞれ自分の土俵を持てるし、そこではナンバーワンになれる。小さいながらも、自分の世界を持ち、そこに君臨できる。これは自分が持って生まれた才能を活かし、それを伸ばす努力をすれば必ず得られる成果だ。

これに対して悪平等原理は、あくまでも一つのドメインを前提に、そこを頭数で割って平均化しようという発想である。こう考えてゆくと、悪平等主義の問題は、枠組みを一つしか考えないところがにある。なぜそうなのか、それはそのほうが楽だからだ。あくまでも、自分でものを考えず、他人の作った褌でしか相撲を取らないという姿勢がもとになっている。これなら、みんな右へ習えで済むし、なにも努力しなくていい。このように、基本的に利権主義者や共産主義者といった悪平等主義に走るのは、自助努力をしたくないからである。それはまた、共産主義社会が結局は立ち行かなくなった理由でもある。人間社会は、自助努力なくしては成り立ち得ないのだ。

しかし、こう考えてゆくと、体質そのものは、もしかするとどうにもならないのかもしれない。変えられる、変えなくてはならない。いいかたはどうでもいいが、要は「変えよう」という発想が間違っている。こと日本においては、密教徒対顕教徒の構図は変わらないということだろう。では、日本ではグローバルな価値観は、永遠に根付かないのだろうか。いや、そんなことはない。顕教徒達が、甘え・無責任で受動的な集団主義を信奉しているからこそ、可能になる選択肢がある。それは、官僚に代表される「確信犯的な甘え・無責任」さを持つ連中と、付和雷同しているだけの連中を分断し、彼らの中で仲違い、いわば内戦をおこさせることだ。

要は発想の転換だ。甘え・無責任な体質そのものはさておき、その他力本願的な姿勢をウマく利用して、確信犯的に甘え・無責任な人間の居場所を狭めてしまえばいい。甘え・無責任な人間は、イジメが好きである。誰かを人身御供にすることにより、自分の甘えを棚に上げたいからだ。そうなれば、答えは簡単。甘え・無責任な人間。悪平等の人間は、「アカ」と呼ばれて、マス・ヒステリーの中で排斥されるような社会を作ればいい。日本人はこういうのは大好きな体質がある。そういう流れさえ作ってしまえば、決して難しいことでないかもしれない。意外と、そういう流れに近づいていたりして。

(01/06/15)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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