自己責任としての安全






このところ重大事件がおきるたびに、マスコミでは「日本の治安の悪化」がよく語られている。日本の「安全神話」が崩れたと語り、モラルの低下を嘆く人もいる。感情論としてはともかく、このような論調には論理的におかしいところがある。それは、安全そのものに対する責任が、極めて他人任せのものとして語られている点だ。安全はあって当り前。自分の身は、誰かが守ってくれて当り前。いいかたを変えれば、治安の悪化云々という論調自体が、自分は何もせず享受するだけという、「お上任せの治安維持」が前提になっているということもできる。

そもそも自分の身を守る努力をしないで、安全が守れるわけがない。これは人類が社会的生活を開始し、守るべき富や身分が分化し、人間間、集団間の対立が生まれて以来、永遠不滅の真理だ。それをしないのは、ただ甘えているだけでしかない。自分の身を守る不断の努力をし、それなりの高いコストを支払ってはじめて、安全な暮らしは手に入る。人類の歴史を見てゆけば、これは誰もが行ってきた当り前の責任だ。安全を得るためのコストは、極めて高くて当り前のものなのだ。そしてそれを支払う義務もまた、極めて当り前のことなのだ。

だからそもそも安全とは、誰もが同じように享受できるものではない。より多くのコストを支払った人、より多くの責任を果した人の方が、より安全に暮らしができる。これが基本だ。もちろん、責任から逃げることはできる。しかしそれは同時に、安全の保障は得られなくてもいいことを自覚した上での行動となる。そう考えれば、安全なのがデフォルトであり、「空気や水のように(それらを得るためのコストが、実際にどれほどなのかは別として)」あって当り前と思うことが、単なる思い上がりなのは容易にわかるだろう。

日本の安全神話というのがあるらしい。しかし、近代の日本が決して安全だったわけではない。安全はある種の幻想だった。だからこそ、神話に過ぎない。ここを過信してはいけない。日本の本質は貧しい後進国だった。明治以降も、国力はあっても、人々は身も心も貧しい状態が続いた。人々は失うものがない状態。だから「安全」だったというしかない。積極的に安全だったワケではなく、どうなろうと危険な状態になりようがないという意味で、消極的に安全だったというだけである。

たとえば、江戸時代は大火が多い。何年かおきに炎に焼かれ、江戸の街は無に帰した。庶民はしばしば焼け出されたが、今の我々が思うほどには困らなかった。これは、当時の庶民のバイタリティーによるものではなく、彼らにはもともと家財も資産もなく、身一つの暮らしだったからだ。この状態では、リスクなどありえない。失うものがなければ、何が起ころうとリスクはゼロだからだ。安全神話の本質はここにある。安全だったのではなく、安全に注意を払わなくても、失うものがなかっただけのことだったのだ。

視点を変えてみると、なぜ日本でリスクマネジメントが根付かないのかという問題も、ここにルーツがあることがわかる。リスクマネジメントは、誰にでもできるものではない。危険にそなえ、安全を守るというのは、とても高度な能力なのだ。アプリオリに社会が安全なことを前提に何もしない人々では、安全を享受できる立場にない。彼らにはリスクマネジメントができるわけがない。自分のリスクマネジメントができない人間が、組織の長となり、組織のリスクマネジメントを果せるわけなどない。そう考えれば、相次ぐ企業の不祥事も同じルーツを持っていることがわかる。

普段からの注意を怠っているから、事件がおきる。事件がおきるものと思って、常に注意を払ってはじめて、事件は未然に防げる。事件や危機は、甘えの精神が引き起こすものだ。雪印や三菱自動車の事件を引き起こしたトップと、「治安の悪化」を叫ぶ人々の間には、甘えという共通点がある。安全にしろ、平和にしろ、安定した状態というのは、何も努力しないでキープできるものではない。ましてや、お上とか第三者とか、誰かから与えてもらうものでもない。こういう発想をする人間は、リーダーたる器にない。それが、権力の座についてしまうところに、日本の不幸がある。

そもそも、他人からなにかを与えてもらおうとする発想では、一人前の権利と居場所を持った人間とはなりえない。他人に依存する人間、それは奴隷と呼ばれる。リーダーたるご主人様がいなくては、自分のアイデンティティーすら確立できないからだ。自ら奴隷としての地位を欲するのも、もちろん自由の範囲内だろう。しかし、それは同時に、人権を放棄しているコトを意味する。責任を持って行動できる人間と、無責任に甘えるだけの人間とでは、与えられる権利は違って当然だ。社会と個人との基本的契約関係に関するこんな常識さえ通用しないのが、今の日本なのだ。安全以前に、そっちがどうかしている。

義務や責任を果さず、権利だけを主張することはありえない。それをごり押しするのは、甘え・無責任以外のなにものでもない。同様に、安全に対する貢献や責任を棚に上げ、その結果だけを享受しようということもありえない。しかしこれ、考えてみれば何かに似ているではないか。それは、世界や人類に対する、日本のアイデンティティーの示し方だ。これでは、世界から「地球一の無責任男」とバカにされてもしかたがない。その意味でも、早く「甘え・無責任」な連中を日本から一掃しなくてはならない。



(01/06/22)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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