多軸社会と人材







いまや歴史の1ページとなってしまった20世紀。産業社会、工業社会が極度に発展したその時代はまた、社会主義、共産主義が台頭するイデオロギーの時代であった。その特徴は、物事を考えてゆく場合、まず最初にイデオロギーによる色分けがなされた点にある。東西のイデオロギー的な違いがことさら強調され、実際にはもっと本質的な違いがあろうと、それは問題にならなかった。しかし、構造的な違いがなかったわけではない。だからこそ、ポスト産業社会への動きの中で、脱イデオロギーの波が起こるとともに、そのようなイデオロギーによるめっきがハゲてきた。その分、ストレートに目指す政治システムの違いや、人々が得られるメリットの違いが表に出るようになった。

政治的な主張においても、大きい政府か、小さい政府かという違い。目指す社会についても、所得再配分による悪平等社会か、能力や努力の成果が報われる社会かという違い。かつてのイデオロギー的な所属が左翼だろうと右翼だろうと、このような違いはそれと関係なく存在している。そして今や、その違いの方が、帰属意識として重要になってきた。政党で言えば、公明党と共産党は支持者も政策も近く、傍から見れば同じ穴のムジナに見える。しかし、仲は極めて悪い。今までこれはその理由をイデオロギー的なものに求めていたが、どうもしっくりこない。しかし、これも大きい政府の悪平等社会を求める連中の中での、主導権争いのための内ゲバと考えれば、たちまち合点が行く。

これは何も政治や思想に限ったものではない。あらゆる面で、「イデオロギー」より「スタンス」の方が重要な意味付けを持ち始めている。そういう意味では、単にある軸のどちら側だという「一元論」でモノが語れない時代になっている。わかりやすいこともあって、今までアプリオリに「自立・自己責任」対「甘え・無責任」という対立軸でものを語ってきたが、これとて、厳密には一つの軸ということではない。単純に考えても、ここには二つの軸が存在する。一つは、「甘え-自立」軸。もう一つは「無責任-自己責任」軸。この二つの軸は独立しており、都合4つの人間類型が存在する。つまり、自立・自己責任型の人間にとって、敵は3タイプ存在することになる。

これが特に大きい影響をもつのが、企業と雇用という文脈である。経営のパラダイムシフトとともに、雇用のパラダイムシフト、企業観のパラダイムシフトが起きてきている。そして、これから必要とされる人材を考えるときには、この2軸に分ける視点が極めて重要になる。求められる人材は自立・自己責任型とすれば、あとの3タイプ、甘え・無責任型はもちろん、無責任・自立型(単にワガママなヤツ)、甘え・自己責任型(追従・フォロワータイプ)は、必ずしも必要でないタイプである。しかし、工業社会においては、「甘え・自己責任」型の人間は、ラインの一部分として使うためには非常に都合が良かった。このため企業内にはこういう人間が多いし、社会全体にも多くなっている。

しかしこのようなタイプは、これからの世の中への対応力において著しく問題がある。そもそも甘え・無責任からの脱皮は、自分自身で発見して解決するしかない。他人だよりから抜け出ることが解決なのだから、答えそのものを誰かから教えてもらおうとするようなメンタリティーでは、決して解決にならないからだ。こういうタイプは、自ら「悟り」、新たな自分のパーソナリティーを築けない限り、外在的なプロセスでは改善のしようがない。それならば、まだ「無責任・自立」型のほうがいい。「無責任・自立」型なら、厳しい試練を与えて「教育」することで責任感を醸成し、自立・自己責任型にステップアップするチャンスがあるからだ。

そういう意味では、そもそも人材が「外的改善の余地あり」「余地なし」という、二つのタイプに分かれてしまう時代になる。もっとも、自分のパーソナリティーを改造するという発想自体が、意味を持たない時代になるということもできる。そもそも、終身雇用の時代ではない。目的に合わない人材、必要ない人材を、コストをかけて「改善」するなんていう余裕は、どの企業にもない。なだめすかして人材を育てる時代ではないのだ。もちろん「改善」するのは勝手だが、それは一人一人の人間が、競争原理の中で「自分自身で自分を磨く」自己責任においてやることであり、企業側が積極的にコストとリソースを割いて行うことではない。

企業が行うことは、必要な人材を競争原理により獲得し、そのパーソナリティーにあわせて、適材適所に配置することだけ。かつては適所があったとしても、今適所がなくなってしまった人には、居場所がないということ。無理に鍛錬して、求められる場所にあわせても、ベストパフォーマンスが得られる保証はどこにもない。そんなことをやっても仕方がない。それなら、今もっているコンピタンスが生かせる「適所」がある、企業なり組織なりに移るべきだ。適所の有無は、主として「選択と集中」によるものが大きいわけだから、その企業で不要になった人材も、そこに集中戦略をとっている企業にとっては宝の山だ。決して恐れることはない。

A企業としての経営戦略の基本に「選択と集中」がある以上、リソースとしての人材にもまた「選択と集中」が必要になる。そのためには、その企業にとっての人材の「あるべき姿の明確化」が必要になる。そうなれば、あとは流動性の問題だ。流動性さえ確保されれば、競争原理とコスト効率で最適配分は可能になる。もっとも、処遇の良し悪しはついて回るとは思うが、それはその人の生み出している価値に差がある以上、避けては通れないし、これを回避する方が「悪平等」になる。その人がパーソナリティーを高く売れるかどうかは、ある種組織と個人のディールである。それがうまく行くためのポイントは、今ある枠組み自体への疑問をもてるかどうかだろう。構造自体の否定を思いつける人間か、そうでない人間か。パラダイムシフトの時代の人間の価値はここで決まるからだ。


(01/06/29)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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