男性社会は甘え社会






日本にはびこる「甘え・無責任」の文化。その直接の根っこは、日本に大衆文化が起こりだした桃山時代にまでさかのぼることができる。もっというなら、間接的には鎌倉時代末の新仏教の大衆化にまで結びつけることもできるだろう。どちらにしろ数百年の「伝統」のあるとんでもない文化である。とするならば、日本の社会構造のいろいろなところで、その影響というか弊害がにじみ出ているはずである。そう思って世の中を見回してみると、なるほど重大な事実に気がついた。それは日本の「男性社会」が、実は「甘え社会」であったということである。俗に言われる「男性社会」的な要素は、ことごとく自分で責任を取らないどころか、誰も責任を取らずにうやむやにするためのメカニズムなのだ。

たとえばその典型は「肩書き人間」だろう。日本の会社にも、属人的な能力を発揮し、極めて優秀な成果をあげている社員はいる。だからこそ、一部の日本企業はグローバルなブランドとして成功している。しかし、多くの企業の大多数の社員は、名刺に代表される「肩書き」にぶるさがって仕事をしているフリをしているだけだ。肩書きは人間ではないので、肩書きが仕事をするわけはない。しかし、定型的な処理をしているだけで仕事をしている気になってしまっていたいままでのホワイトカラー層のやってきたことは、そのレベルである。ここでは肩書きの裏に隠れ、自分という人格を消すことで、責任を曖昧にしているのだ。官僚の不祥事も、官僚組織が肩書き主義の匿名組織の権化だからこそ、起こるべくして起こったということができるだろう。

また、年功序列制も同様に機能していた。多くの日本の企業や組織では、社歴、年功という、本人の能力や成果に依存しないファクターで人を評価してきた。そもそも社歴にしろ年齢にしろ、これらの数値は、文字通り誰でも年とともに積み重なってゆくもの。その数値に対しては、本人に何の責任もないし、努力もいらない。ということは、何もしないでいるのが一番得という仕組みである。当然、仕事は無難に過ごしつつ、役得をどうせしめるかという発想になる。これはなにより、無責任体制を再生産することに貢献する。日本の男性社会を支えてきた制度は、斯様に「甘え・無責任」でいられる環境を整え、確立してきたのだ。

さて、男性社会といえば忘れてならないのが、セクシャルハラスメントである。セクハラに限らず、新人イジメに代表される、いろいろなハラスメントやイジメは、男性社会にはつきものである。これらは、誰かがリーダーシップを取って積極的にイジメるわけではない。多数の名を借りて、責任を曖昧にした上で行う、陰湿なイジメである。よく考えてみれば、男性社会は、いかにもジメジメと陰湿な一面を持っている。これはまさに、無責任体制と裏表の関係にある。誰も責任を取らないから、取らなくていいからこそ、仲間外れなヤツを生贄にする。これもまた、男性とは集団に甘えるだけで、いかに「根性なし」な生き物かを示している。

このような組織の典型が軍隊だったり、体育会だったりする。これらの組織は、まさにタテ型男性社会の権化である。それは、これらの組織の特性を語るときには、タテ型男性社会を美化するような言説と共に取り上げられることが多かったコトからもわかる。このような組織の中では、メンバーは階級だったり背番号だったり、ある種の形式性に身をゆだねて自分の存在を規定できる。個人であることを意識せず、匿名のままいられる。自己アイデンティティーが必要ないのだ。それは自分というものを築き、維持するための努力をしなくていい、きわめて楽な場である。

それはまた、それらの組織が実力主義から最も遠いことにもつながっている。体育会は一見実力がモノをいうようにも思うが、それが認められるのは、ごく一部の有力選手だけである。多くの部員は、いわば下積みのまま部活動を終える。そしてそういう人間の方が圧倒的に人数が多い以上、彼らが組織としての色を決めることになる。それは、決められたプログラムを黙々とこなすことによって得られる年功ルールである。そこでは個性も実力も関係ない。実は、多くの男性にとっては、こういう「匿名の中に紛れ込める」組織は、ひたすらいごごちがいいのである。

ある種、日本のスポーツが勝てないのも、日本の競争力がグローバルに通用しないのも、つきつめれば、この男性社会の持っている「逃げの姿勢」に由来していると考えることができる。まさに男性社会とは、「甘え・無責任」に基づく受動型人間でも、それなりにイッパシの顔ができてしまうよう、巧妙に作られた社会であり、組織なのだ。そう考えると、この八方塞りの日本の中で、女性のパワーだけが相変わらずグローバルに突き抜けているコトも合点がゆく。結局日本の男性なんて、借り物の鎧を着けている弱虫なのだ。この根性から徹底的に叩き直さなくてはいけない。そうでなければ、表面的な改革をいくら行っても、ヤドカリが貝殻を探すがごとく、またどこからか隠れ蓑を探してきてしまうだろう。


(01/07/27)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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