セーフネットより「靖国神社」






日本人の多く、特に大衆と呼ばれる人達は、いままで何度も主張してきたように、「甘え・無責任」を行動原理とし、受動的な意思決定をもとに自分の行動選択を行っている。いま、改革の中でセーフネットをどうするかと言う議論が盛んだが、こういう行動様式の連中を前にセーフネットを張るというのは、どう見ても逆効果だ。こういう輩は、セーフネットがあると思えば、そこに甘えてしまい、自助努力をすることをやめてしまう。一触即発、一瞬間違えればたちまち谷底に落ちて死が待っている。このぐらいの状況になってはじめて、「多少はきちんとやらなくちゃ」と思う連中ばかりだ。お尻に火がついて、自分の命が危うくならなくては、自己改革などやるわけがない。

最近の改革議論と共に、よくセーフネットの必要性が語られている。しかしセーフネットは、あくまでも自立・自己責任で行動する人間に対してのみ意味がある。甘え・無責任な人間にとっては、もしも落ちたときのための安全装置であるはずのセーフネットが、その上で心地よく寝ていられるハンモックにになってしまう危険性が高い。セーフネットが、かえってそれに依存する人間を増やしてしまったのでは、元も子もない。もちろん、何らかの形でセーフネットを用意するのは必要だし、意味があることだと思う。だが、甘え・無責任な人達は、セーフネットの存在を知ってしまうと「セーフネットがあるから、俺たちは大丈夫」という免罪符してしまう。これでは全く意味がない。

これは、たとえば失業保険がどう利用されているか見てみればすぐわかる。本来失業保険とは、再就職する努力をしていても、それを達成できない期間のつなぎとして作られたものである。しかし現代の日本において、多くの場合それはモラトリアムの既得権として利用されている。つまり、失業保険が出る間は、プータローをやって遊んでいた方が良い。あるいは、遊んでいても許される期間だ、という認識である。転職先が決まっている場合でも、こういう猶予期間をワザと作る人がまだまだ多い。これなども、本末転倒で本来の趣旨と関係なく、制度そのものが一種の既得権になっている事例である。

同様に、本来緊急措置であるはずのセーフガードや産業保護、振興策も、既得権化し、自助努力へのモチベーションを奪うものとして働いている。本来、こういう補助策は、その補助金や援助で喰わせてやるためのものではない。あくまでも競争力を持ち、自立できる基盤を持つまでの「つなぎ」としての援助であるはずだ。しかし、それが既得権化すると、その補助によってのみ生きるパターンが生じる。まるで、脳死状態にある人間に、強力な人工心臓や心肺を取り付け、全く人工的にのみ「生かせている」のと同じだ。それなら、臓器移植ではないが、その産業を解体して、そこにあるリソースを競争優位の分野に投入する方が余程建設的だ。

とにかく、最後の最後まで、甘い汁をすえる利権はないか、努力せずに済む抜け穴はないか、と探しまくる。日本の大衆はどうやっても、甘えられ、責任を押し付けられる「大樹の陰」を探そうという性根から抜けられない。改革とはこの根性を叩き直すことに他ならない。この意識改革なしでは、日本は永遠に水面下に潜ったままだろう。意識を変えられる人は、徹底的にシゴいて、根性を入れなおす。自立・自己責任で行動しなければ生きてゆけないということを、身を持って体験させる。それで立ち直らないひとはどうするか。そういう連中は、人間のクズである。人間として生きている意味がない。まさに、「甘えは死ななきゃ直らない」である。

こうなると、せめて彼らに対してして上げられることは、みすぼらしい死ではなく、栄光ある死を与えることだ。リストラされ、寂しく自殺するのではなく、お国のために華々しく犠牲となり散ったという称号を与えられる環境を整えることだ。甘え・無責任な連中は、お国のために死んでもらうしか、改革の道はない。そのための解決策としては、「靖国神社」しかない。日本が生まれ変わるために犠牲になった人々。彼らもまた、お国のために尊い命をささげた英霊だ。これを表彰できる仕組みがなくては、それこそ死んでも浮かばれない。そして日本人には、「お国のために死んで英霊になる」以外能のない連中が余りに多いのだ。

故香山健一先生の臨教審での名言「画一性に死を」ではないが、文字通り「『甘え・無責任』に死を」である。甘え・無責任な人達には、死をもってつぐなってもらう。しかし、その死は国として無駄にはしない。そういう人達が、きちんとお国のために死ねて未来永劫英霊として祀られる、靖国神社のようなシステムを作る必要がある。いま改革のために大事なのは、セーフネットではない。必要なのは、改革についてゆけず犠牲とならざるを得な人達を、国家が英霊として祀ることのできる、改革のための「靖国神社」だ。過去の半世紀も前の「靖国神社」を議論するより、いま求められている21世紀の「靖国神社」とは何かを考える方が余程大事だろう。さあ、甘え・無責任な方々、安心して死んで頂こう。


(01/08/03)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる