能力主義の極意






日本の企業で能力主義が謳われはじめてから、けっこうの年月が経つ。バブル期とかがはさまってしまったものの、早くは80年代から、能力主義の人事や評価という視点が唱えられていた。しかし、日本企業もグローバルに評価されるようになった今となっても、実際の評価がついていっていないのが実情である。能力主義がウマく言っていないという声もよく聞く。それだけでなく、制度自体は年俸制・業績連動で完全に能力主義になっていても、ポイントを成果ではなく、年功に従ってつけることで、運用で年功給にしてしまっているところもあるという。まさに仏作って魂入れず。能力主義とは、実は制度をどうするかではなく、その制度をどう使うかという運用の問題なのだ。

多くの日本企業において、能力主義を取り入れようとする場合、大きなネックが三つある。その一つは評価者の問題だ。そもそも人間は、自分の能力以上のものを評価できない。自分の能力以上のものと出会った場合、それがスゴいコトはわかっても、どれだけスゴいのかという客観的評価ができない。これは視力が悪いと細かい文字が読めないのと同じ、構造的な問題だ。自分で音楽をプレイできない音楽評論家のコメントが、往々にして的を外しているのもこのためだ。人材の評価も同じこと。どんなスゴい人材がいても、管理者、評価者の能力が低いと、その差がわからないし、評価として差がつけられない。

そもそも今までの日本の企業では、能力があるから管理職になっているわけではない。昇進の多くが年功序列によって行われてきた。年功は、基本的には本人の能力とは関係がないファクターだ。そして日本の企業では、年功序列で中間管理職になった層がまだまだ多い。人を見る目がない人間が、人を評価する立場に立たされている。この矛盾をほったらかしにしておいて、能力主義、成果主義を標榜しても、評価に差がつけられなくなってしまう。これが現状なのだ。評価者としての能力の足りない評価者が、中間管理職という地位にとどまっている事実。これをそのままにして制度を変えても、何も起こらないのだ。

もう一つは組織観の問題である。企業とは何か、これにキチンと答えられるひとが企業内に少ない。それどころか、まだまだ「企業」に関する古いパラダイムを引きずっている人の方が多い。日本では長らく、無責任・悪平等の共産主義的な組織観が跋扈してきた。これに基づくと、企業とは社員の集団になってしまう。しかし、これでは組織ではあるが企業ではない。企業とは、目的を持った組織だ。だから、今組織に属している人間の集団が企業なのではなく、目的のために人格を持った資本が企業なのだ。

企業である以上、人は入れかわっても、組織は生き残らなくてはならない。そのためには、人の集団が即企業組織、ということではいけない。この数年で、日本の企業観も大きく変わっている。特に、勝ち組グローバル企業を中心に、トップの企業観は大きく変わった。そうでなくては、株価がつかない状況だからだ。しかし、現場の社員の意識はまだまだ旧態依然としている。それどころか、組織にすがって生きようという「甘え・無責任」な受動型人間が多い。これでは、正当な能力評価はおぼつかない。

日本の企業に根強くはびこっている、「私の会社」という意識。これもよく考えてみるととんでもない誤解だ。オーナーや株主が、「私の会社」というのなら、これは筋が通っている。しかしタカが従業員が、こういう発言をしてしまうところに、日本企業のおかしさがある。従業員は、あくまでも企業の目的を達成するための手段でしかない。それが主役面してしまうところに、日本の共産主義国家としてのゆがみが象徴されている。そもそも従業員は、企業にとっては「従」な存在である。その能力とは、あくまでも企業としての目的があって、それを達成する上で必要なコンピタンスをどれだけ提供できたかの問題だ。企業とは何かというところにぶれがあったのでは、能力の評価のしようがないのはいうまでもない。

最後は、人間観の問題だ。能力主義とは、つきつめて考えれば、その企業や組織にとって、その人材が必要か必要でないかという振り分けに他ならない。「頑張ったからご褒美をあげる」という性質のものではない。もっとはっきしいえば、その組織にとって必要でない人材の流動性を増すために行う評価である。必要ないということが、本人にも周りにも明確になることが目的である。このためには、常に組織の目標と照らし合わせて、管理者が「その人間が必要か不要か」という振り分けについてのビジョンを持っている必要がある。

すなわち成果の評価とは、よく頑張りました、もっと頑張りましょう、ではない。そもそも、その人の持っているパーソナリティーが、その組織に向いているか、いないかの問題だ。パーソナリティーは、無理して努力してあわせるようなものではない。合う人は合うし、合わない人は合わない。もはやこれはDNAレベルの問題だ。お前は要らない、ということを、管理者は明確に打ち出せなければいけない時代に入っている。画一的な集団主義にそまった「悪平等」な人間では、このような評価は出来ない。

それは、人材を育てる余裕のある時代はもう終ったからだ。「目的に合った人材を使う」時代なのだ。画一的な労働力が必要だった高度成長期の産業社会だから、新卒採用というような悠長な人事政策も取れた。はっきりいって、今後の社会では、これはあまりにハイリスクな採用方法だ。使える人間かどうかわからないし、そのリスクを企業が取らなくてはならない。これからは、ポストに合わせて頑張るのではなく、ポストに合っている人間を使う必要がある。人事政策の最適化には。この発想が必須だ。

こう考えてゆくと、結論は簡単だ。能力主義は「結果」であり、手段や方法論ではない。能力主義、成果評価がウマく言っていないという声もよく聞くものの、それは能力主義を「取り入れる」という発想がおかしいということになる。能力主義とは組織の行動理念であり、そういう理念が組織の基本原理になっているかどうかの問題だ。能力主義がウマく行かない会社は、そういう意味では体質に問題があるということになる。それでは、時代についてゆけない。競争力がないからだ。いつか、変化の波の中で消えてゆく運命にある。能力主義がウマく浸透しているかどうかは、ある種のリトマス試験紙。それがウマくいかないから見直そうと言うような会社は「売り」だ。

(01/08/10)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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