モノ作り神話からの脱却






こと日本においては、「モノ作り神話」がよく語られている。いわくモノ作りでは日本は世界でも有数であり、この原点に帰ることで、現状の苦境も乗り越えられる、ということである。確かに、20世紀後半の高度成長においては、クルマ、精密機器、家電、情報機器など、ハードウェアの生産が日本経済を支えてきた。しかし、それが即神話になってしまうというのは、「日本は神国だから負けるはずがない」という戦時中の精神論と同じで、まったく根拠がない。それどころか、「モノ作り神話」が語れるときには、意図的に二種類の「モノ作り」を混同し、「神風」を吹かせてしまっているキライがある。これは極めて危険な発想である。

そもそも日本の高度成長は、その初期においては、戦後の冷戦の中で過剰なまでに設定されたドル高の交換レート(1$=360円)の有利さが、生産コストの安さという競争優位を成り立たせていたところから始まっている。これは神話でもなんでもなく、冷徹な経済合理性の帰結だ。要は、コストパフォーマンスがいいので、相対的に競争力があったということである。あくまでも基調は世界の工場としての生産性にあり、付加価値の高い生産を行い、高い利益率を上げてきたわけではないことを忘れてはならない。だからこそドルショック、オイルショック以降も、レートの上昇と生産性の向上のチキンレースを繰り返し、それでしのげたのだ。

このように、高度成長は神話でもなんでもない。だから「モノ作り神話」があるとしても、それは大量生産・大量販売のハードウェアを作る話ではないのだ。確かに日本の技術の優れた部分もある。一つは生産管理の技術である。ドルショック・オイルショック以降の生産性向上ともたらしたのは、根性論でも精神論でもない。モノ作りそのものの技術ではなく、工場運営や生産工程管理の技術である。日本の新幹線が世界に誇れるのは、車両でも土木でもなく、分秒間隔で高速列車を正確に運行する運行管理技術である。それと同じで、大メーカーの工場の中で日本が優れている部分は、工場の外側の一般人には見えない部分である。

もう一つは、オーダーメイドによる超多品種少量生産、いわゆるカスタム・メイドの領域だ。よく話題になる、他にない技術を持った中小企業の強みがこれだ。もはや工芸品に近いような特注品を作る技術。これは、余人を持って変えられない特殊技能を持った人材があってはじめてできる世界だ。この領域で強みを持っている人や企業は確かにある。だがこれは、不特定多数の大衆を雇用して運営できるマス生産の工場ベースの話ではない。クルマでいえば、年間何万台という量販車ではなく、手作りのプロトタイプレーシングカーのようなクルマを作るプロセスの話のようなものだ。

このように「モノ作り神話」とは、そもそも一般大衆、一般の被雇用者の立ち入れる世界とは違う部分で成り立っていたものにすぎない。日本には極めて優秀な技術者がいた、それだけのことである。これは誇ってもいい事実だが、けっして一般的な事象ではない。それを、「モノ作り」=「メーカー」=「高度成長」と強引に結び付けて一般化し、虚構の日本人の優秀性を鼓舞する手段としてしまったのが、世間でよく言われる「モノ作り神話」である。その優秀な生産管理技術をもってしても、コストの高さをカバーできなくなった今こそ、この事実を認識しなくてはならない。

先日、日本でも最大級の製鉄所を仕事で訪ねる機会があった。世界でも最も進んだ制御を行っている工場だそうである。高炉を維持するため、この30年間で機械化・自動化を進めると共に、外注化を推進し、価格競争力を維持しているということであった。確かに人は少ないが全くないわけではない。メンテナンスやロジスティックスという面では、外注だろうがけっこう人は働いている。それ以上に、土地も物流もあらゆるコストが高い場所に製鉄所を建設・運営しているわけである。現状では確かにそれなりに価格競争力があるのかもしれないが、それはかなり無理をして実現している競争力である。

日本国内に製鉄所を持ち、高炉を維持する。それが先にあってはじめて成り立つ戦略だ。少なくとも、これと同じ施設を、もっと労働コストが安く、土地や物流コストも低廉な場所に建設すれば、もっともっと競争力を持つはずである。確かに製鉄所は一旦建設してしまうと、余りに巨大ゆえ、消費財の生産のように、簡単にやめたり拠点間で移管したりしにくいことも確かだ。だが、経営戦略としてみた場合、今後ともそれを維持するという選択は、余りに効率が悪い。実際アメリカなどではもはや高炉は持たず、鉄鋼メーカーといえば電炉ということになっているという。企業合理性からいえばそれが当然だ。

もっとも、戦略として大量生産としての「工場」でのモノ作りに徹底してこだわる道もある。ただ、そのためには徹底してローコストを貫く必要がある。労賃も、土地も、輸送コストも、電力や水も、世界のどこよりも安い水準をキープする。これはこれで一つの選択だ。それが高騰して競争力を失ったのなら、それを下げてでも競争力をもたせる。徹底したデフレ政策をとり、統制経済を導入すれば、理論的には出来ないことはない。しかし、このためには国民の「我慢」がなにより必要だろう。もっとも、世界各国がこれを許すかどうかというのは、まったくの別問題だが。

まさに、虚構の「モノ作り神話」に酔っていられないことが、今、日本が課せられている問題なのだ。どこに付加価値があり、どこに競争力があるのか、きちんと峻別する必要がある。そして、競争力のない部分は大胆に切り捨てる必要がある。また新幹線を例に出せば、たとえば運行技術は「シンカンセン方式」が世界一でも、ハードウェアとしての車両は「TGV」が世界一とするならば、これを組み合わせて走らせるのが世界で一番いいことになる。良いは良い。ダメはダメ。思い入れや思惑にとらわれることなく、選択と集中を行う。今求められているのはこの視点だ。このようなクールな発想ができるかどうか。それが、日本経済再生のカギとなるだろう。


(01/08/17)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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