リーダーの条件







国際的に通用する日本人が少ないことを嘆く声は、未だに多く聞こえる。そして、その多くが、日本の教育制度や企業などの組織の構造にその原因を求めている。確かにそれらの現象と関係がないわけではないが、別にそれが原因と結果になっているわけではない。ある原因があって、どちらもその結果として現れている現象という意味で関係があるに過ぎない。そしてその原因は、やはり日本人のメンタリティーそのものの問題と考えるべきだろう。つまり、「甘え・無責任」で受身の行動を好む人が多いからこそ、世界で通用する人材が生まれないということだ。

これは言い換えれば、リーダーたる人材が少ないということになる。「甘え・無責任」で受動的なメンタリティーを持つ人は、行動様式、特に組織内の行動様式としては、「長いものに巻かれる」「付和雷同する」ことになる。もちろんこれは人の生き方の問題だし、生き方の選択は、自己責任において行なわれる分には、あくまでも当人の自由である。だから、それがアプリオリにいいとか悪いとかいうことにはならない。しかし、主語を組織のほうに置くと、そうはいかない。組織内に「長いものに巻かれ」「付和雷同する」人間がある程度いてもいいものの、そういう人達だけでは組織足り得ない。

そういう「甘え・無責任」型の人間ばかりが集まった集団は、群集にはなれても、組織にはなりえない。少なくとも、リーダーが一人はいなくてはいけない。そしてリーダーは「自立・自己責任」型の人間でなくては元来勤まらないのである。もちろん、リーダー型の人材が豊富な分には何も問題がない。それは、いちいち手取り足取り指導したり、全てマニュアル化しなくても、各構成員が自律的に課題を解決し、道を開いてゆく人材が多いということであり、これはその組織が活性化し、発展する原動力となる。ところが、日本の組織には「一人もリーダーがいない」ものが存在している。実は、こちらが問題なのだ。

今問われている社会的問題の多くは、企業でも官庁でも学校でも団体でも何でもいいのだが、複数の人間から構成される組織の中に、リーダーたりうる「自立・自己責任」型の人間が一人もいないことによって引き起こされているということができる。そういう集団は、そもそも組織になっておらず、当事者能力も持っていないのにも関わらず、組織として社会的に一人前の資格を与えられてしまっている。というか、「甘え・無責任」型の人間だけが寄り集まった集団も、組織として認められてしまうような社会的コンセンサスが形成されてしまっている問題である。

この問題は、江戸時代までさかのぼることができる。一部の商家のような合目的的組織は別として、多くの武家のような組織では、長い安定的平和の中で、組織自体が何かを行なうための手段ではなく、それ自体の維持を目的とする集団となっていた。これが「甘え・無責任」マインドを生み出す母体となった。このようなメンタリティーが、明治以降の近代化・工業化の中で強化され、組織原理にまでなってしまった。それは国家の目標が、「追いつき追い越せ」という、極めて明確でかつ受動的なものであり、それを実現するためには組織自体の自律性は必要とされなかったからだ。

そして、何度も述べてきたように20世紀の全世界的な大衆社会化の波の中で、もともと「甘え・無責任」な傾向の強い大衆が豊かになり、権力を持つようになる。当然社会組織も、大衆組織が基本となる。ここで日本が不幸だったのは、リーダー不在のまま、大衆組織が広まってしまったことだ。大衆組織であっても、リーダーはきちんとリーダーシップを取れる人でなくては目的合理的な行動は取れないし、目的合理的な行動を取れない集団は組織ではない。こんな当り前のことも理解されないまま、日本社会は、その経済力、発言力ばかり高まってしまったのだ。

そう考えてゆけば、そもそも高望みするほうが間違っていることがわかる。世界の中で普通の国になることも、国連で常任理事国入りすることも、経済活動で競争優位に立つことも、いろいろな工業規格や標準において主導権を持つことも、すべてリーダー不在の組織ではできないことだ。それだけでなくこれらの問題は、組織間の競争において、リーダー型の人材の多い組織であってはじめて優位に立てる問題なのだ。「甘え・無責任」をベースとする現状の日本型組織を是認する限り、これらの願望には永遠に手が届かないだろう。

しかし、解決は決して難しくはない。日本にも「自立・自己責任」で行動できる人間がいないわけではない。そして、決して諸外国と比べて少ないわけではない。だから、組織のリーダーたりうる「自立・自己責任」型の人材と、決してたりえない「甘え・無責任」型の人間を峻別し、前者の人材にのみに組織の責任と権限を与え、後者の人材には与えないようにすればいいだけのことである。

言い換えれば、21世紀型、グローバル基準(これは決してアメリカ型ということではなく、欧州でもアジアでも通じるという意味で)のエリートが、どうやれば日本で確立できるか。どうやればその層を「大衆」層と識別できるか、ということである。もちろん多少の痛みや弊害を伴うとは思う。しかし、これをやりとげる必要がある。いま求められている構造改革とは、つきつめればこういうことになる。組織観や行動原理のパラダイムシフト。これができるかどうかが、日本が21世紀に生き残れるかどうかのカギになるということができるだろう。


(01/08/24)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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