「評論家コンサルタント」は要らない






日本が世界の中で生き残るためには、今後起こるであろう構造改革を、徹底して行なう必要がある。その波の中では日本企業の経営のおいても、自己リソースのコア・コンピタンスへの選択と集中を図る、グローバル基準の経営戦略が拡がってくることになる。選択と集中の裏には、選択にもれて切り捨てられるリソースも当然ある。しかし、事業全体のバリューチェーンの中では、そのリソースも必要になる。このため行なわれるのが、アライアンスやアウトソーシングである。アライアンスは、責任と権限をもつ事業主体間での「提携」の一種なので、それなりに経験したコトのある世界だろう。しかし、本格的なアウトソーシングを使いこなした経験のある日本企業は少ないかもしれない。

労働集約的なコスト部門や、いわゆる3K的な職務に関するアウトソーシングは、今までにもあっただろう。しかし、これから求められるアウトソーシングは、今まで企業の基幹機能の一部と考えられていた機能を、外部の専門家に任せるタイプのものだ。当然、アウトソーシング先は、その領域におけるコンサルタントや、専門家・スペシャリスト達である。このようなリソースを使いこなすためには、使う側が明確な意思を持ち、期待する成果を明確にディレクションする必要がある。専門的であるがゆえに、「よきに計らう」ことができないからだ。使う側がきちんと指示すれば、それに応えるきちんとした「答え」がでてくる。しかし使う側が曖昧だと、曖昧なアウトプットしか出てこない。

アメリカにおいては、伝統的に社内のリソースは必要最低限にとどめ、なるべく外部のリソースを活用する傾向が強い。これに、垂直統合を嫌う風土が重なり、何事においても「コンサルタント」業が成り立つ基盤ができてきた。たとえば経営コンサルタントも、基本的に果たしている機能は、日本企業では本社スタッフとして内製化している機能である。だが、それらの機能は企業として本質ではないゆえ、社内に抱えず、外部のコンサルタントに「アウトソーシング」する、という判断をしているがゆえに、ビジネスとして成り立っているわけである。逆にいえば、今までの日本企業では、それらの機能は社内のスタッフと競合関係にあったということができる。

このように外部のコンサルタントやスペシャリストを使う際には、日本企業の場合は、今までのように機能を内製化した場合にかかるであろうコストと、アウトソーシングした場合にかかるコストを比較し、どちらがコストパフォーマンスがいいかという視点が必要になる。この場合、たとえば法務スタッフなどのように、社内でもそれ専業の専門家の集団がある場合は比較しやすい。問題なのはプロジェクト対応のタスクフォースチームと、外部のコンサルタントチームの比較のような場合である。今まで日本において経営コンサルタントを利用する場合、このような臨時モノ的な扱いが多かった。そしてそのような場合、往々にしてコスト評価が甘かったのである。

このようなアドホック型の事例においては、多くの場合、結果的に社内のタスクフォースチーム自身が結論を出すことになる。外部のコンサルティングチームは、まさに外野の応援団に過ぎないことが多い。これでは費用を支払う意味が全くない。アウトソーシングにも何にもなっていないし、結果的にコスト増しかもたらしていない。この裏には、外圧に弱い反面、折角抱えているスタッフを信じて任せられない、日本企業の経営層の体質の問題があることも確かだ。しかしそれとともに、アウトソーシングに不慣れで、外部を使うのが下手という、現場も含めた構造的問題が大きい。肩書きにとらわれず、その相手が本当にアウトソーシングするに足る相手かどうか。それを見極める眼力が、発注主に求められることになる。

アウトソーシングするからには、きちんとソリューションを提供してはじめて金を払う意味がある。答えが出てナンボなのだ。タイムチャージにダマされてはいけない。答えを出すプロセス、ソリューションを考え出すプロセスだからこそ、その過程である時間に金を払う。何のために、どういう成果が必要か。ここが曖昧では、外部のスタッフは使いこなせないのだ。この結果起こってきたのが、コンサルタントの評論家化だ。結論を出す必要がないのなら、きちんとモノを考えられなくても用が足りる。それらしいことを、それらしくいうだけなら、評論家でいいことになる。結果、日本では頭でっかちで何もできない、評論家的コンサルタントが跋扈することになる。

彼らの特徴は、物事をネガティブに捉えるのが好きな点だ。この理由ははっきりしている。評論というのは、他人の問題点をあげつらうのがいちばん簡単なのだ。どんな成功例でも、全てにおいて完璧というものはありえない。同様に、問題点が一つだけの失敗例というのは少なく、複合的な失敗理由を解きほぐせば、いくらでも問題点を特記することができる。かくして、評論家はネガティブなことしかいえないのである。だが、それは評論のための評論でしかない。そんな問題点の指摘をいくら聞いても、何のプラスにもならない。大事なのは、実際に成功へ導くソリューションである。だが、これは失敗例をいくら分析しても出てこないものだ。

そういう視点からすると、少なくとも物事をポジティブに捉え、どんな事例からも謙虚にいい所を学ぼうとする姿勢をもっているかどうかが、重要なポイントになる。それは、評論家的な口先だけで偉ぶろうとする姿勢の対極にあるものだからだ。失敗例や、自分のライバルからさえも、学べるものは学ぼうというスタンスを持っているなら、ひとまずは任せても安心だし、それなりの答を提供してくれる可能性が高い。そこまでの相手は少ないかもしれない。しかし、したり顔で「あれはダメだ」とか「これはここがイカン」とかけなしまくる人間には、アウトソーシングで責任あるタスクを任せるわけにはいかない。外部に任せるにあたっては、最低限このくらいの「審美眼」を持つ必要があるだろう。

(01/09/07)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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