勝者総取り






日本人は、ともすると意味なく競争を避ける傾向がある。これを「和を重んじる」と称し、伝統的価値として積極的に評価する向きもある。しかし現在見られるような性癖は、そんな古いものではなく、明治以降の近代社会と共に生まれたメンタリティーであることは確かだ。競争を嫌うだけでなく、競争するとしても、優劣をつけるコトを忌避する。最終的な決着はつけず、最後のところはなぁなぁにする。寸止めで終り。息の根を止めない。うやむやに終らせ、結果について玉虫色の解釈、我田引水な解釈ができる余地を残してしまう。これらの行動様式は、将棋のコマをまた復活させて使うイメージともつながっている。

確かにかつては、こういうメンタリティーがそれなりに意味があったことは認めなくもない。しかし、今では弊害のほうが拡大こともまた事実だ。過去のノスタルジアにとらわれるがあまり、現実を直視できなくなるほど恐ろしいことはない。少なくとも、ムラのローカルルールが通用する時代ではない。それどころか、引きこもってローカルルールに安住することも許されない。井の中の蛙になって、それを強行しようすると、ムラ自体が村八分にされてしまう。今、世界的に日本の活力をそいでいる最大の理由がこれだろう。

今や付加価値の時代。そのスキームにおいては、「勝者総取り」こそが努力の根源であり、活力の根源となっている。平等主義、再配分主義では人を動かし、付加価値を生み出すことはできない。平等主義も、人々が心もフトコロも貧しい社会のモデルとしては、それなりに意味があることは認める。そもそもそこには分けるべき富がほとんどないのだから、平等主義をとっても実質的なメリットはあまりない。その一方で貧しい組織では、精神性として、富を分ける気持ちがモラールアップを生む。そういう状況下では、平等主義は必ずしも悪平等とはならない。

だがそれが成り立つのは、全体のレベルが低く、組織として優位な競争力を持ち得ない集団である間だ。組織内のメンバーという視点に立てば、一流のプレーヤーが一人も存在していない集団において、ということになる。しかし、個々のメンバーの能力がレベルアップし、ローカルな集団内だけでなく、他の集団のメンバーと比べても充分競争力を持つようなプレーヤーが現れてくると状況は変わる。このような状況になると、もはや平等主義の持つメリットは失われる。一流プレーヤーが出てくる状況になれば、平等主義は悪平等に変わるのだ。

これは、次のような例を考えてみるとわかりやすい。最近では、メジャーリーグで活躍する野球選手や欧州リーグで活躍するサッカー選手など、世界レベルで通用する日本人プロスポーツ選手の活躍が目立つ。かつては、日本人選手は世界では通用するレベルになかった。だからローカルリーグしか活躍の場はなかったが、ローカルリーグへの身びいきから、それでもローカルスターとしての座はキープできた。しかし昨今のように、本当に実力のある選手が地球規模で活躍するようになると、状況は変化する。国内スポーツを見る目は厳しくなり、その本当のレベルが明らかになると、人気は地に落ちた。まさに日本社会の構造的問題と同じだ。

レベルダウンはどうして起こるのか。300人のスポーツマンがいたとする。野球が手っ取り早く商売になるスポーツだったとする。日本的な悪平等主義だと、とりあえず金になるからと、全部を野球選手にして、16チームのリーグ戦をやることになりがちだ。しかしこれでは全体のレベルが下がり、つまらない試合が増える分、野球に対する関心自体がシュリンクしてしまう。それより、適性にあわせて6チームのプロ野球リーグと、6チームのプロサッカーリーグを作り、それぞれのレベルを上げたほうが、結果的には客も呼べるし、ビジネスになる。「勝者総取り」とは、このプロセスを「神の見えざる手」で行なおうというものだ。

これらは、共産主義社会では誰も努力をしない理由でもある。その理念の高さはさておき、共産主義社会が実際の社会制度としては成り立たなかったのは、易きに流れる怠惰な人間の特性を、その崇高な理念ゆえにカウントできなかったからだ。悪平等に慣れてしまえば、誰も向上心など持ちえない。切磋琢磨し、もともと優れたところをさらに伸ばさなくては、喰っていけない状況と、努力せずとも楽々喰える状況。人間どちらが向上心を持ち努力するかは、火を見るより明らかだ。

いまや日本は心もフトコロも貧しい社会ではない。景気が悪いといいながら、フトコロだけは暖かい社会なのだ。こういう環境では、もはや周りに対する配慮など不要だ。周りにとっても、総取りであきらめられたほうがいい。最適配分は、「勝者総取り」ではじめてなされる。相対劣位のものも参加できては、レベルが下がるし、市場規模もシュリンクする。「勝者総取り」が行なわれなくては、適性にあわせたリソース配分は不可能。適性がなくても、適当にこなせばやり過ごせてしまうようなスキームでは、自分の適性を理解し、それを磨くモチベーションがうまれるわけがない。今の日本に必要なのは、この向上心を生み出すメンタリティーなのではないだろうか。

(01/09/14)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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