引き際






不良債権の最たるものとされ、この数年どこで潰れてもおかしくはなかったマイカルがついに倒産した。文字通り「死に体」だったわけで、それほど驚くような事態ではないかも知れない。いわば人工心肺で強制的に「生かされて」いた脳死者のようなものだ。だからこそ、株式市場も好感で迎え、その瞬間は米国テロ事件以来の1万円台を回復したりもした。大型倒産で株価が上がる。皮肉なものだが、日本の経済界の現状をこれほど端的に示す事実もないだろう。詰みになってから、脳死になってからの往生際の悪さというのは、いわば日本社会に特徴的な悪癖だからだ。そう思うと、8月29日に突如日本およびアジア地区からの撤退を決め、即時に拠点を閉じてしまった米国ゲートウェイ社の潔さは、日本企業の優柔不断さとは際だったコントラストを成しいている。

ゲートウェイといえば、ぼくらは486/66の頃からおなじみである。その頃のイメージは、あくまでもニッチな振り逃げ屋だ。メジャーどころが出てくる前に、ゲリラ的に、最速、最高性能機を格安で出す。決してメインストリームのプレーヤーではない。そのブランドイメージや企業アイデンティティーから考えれば、グローバルな大手企業よりは、気楽に撤退できるかもしれない。そもそも、日本での事業展開自体拡げ過ぎの感があったし、日本やアジア地区でのビジネスは、決して収益的にプラスではなかったようだ。それを差し引いても、ある種の美学、スタイリッシュさを感じずにはいられない。本来ヤメるなら、充分な余力を残して、こういうタイミングで決断しなくてはいけないのだ。

さてマイカルだが、そもそも流通業界は「出店の自由」に甘えすぎてきた傾向が強い。もちろんどこにどういう店を出そうと自由だが、そこから生じる競争とその結果を素直に受け入れるコトが前提となる。負けはすぐ撤退。これがルールだ。しかし、バブル以降の出店コストの低下は、店舗の過剰化を生み出しただけでなく、撤退判断の閾値を下げるコトにもつながった。都市部の多くの地域で、消費者の目からみても店舗が過剰になり、過当競争になっている。一体どこの店に行こうか迷うくらい、スーパー、GMSは過剰にある。多分不採算化している店も多いはずだ。しかし、企業としての体力がある限り決して撤退しない。よく言えば総力戦、消耗戦だが、その実、維持の張り合いによる我慢比べである。

これでは、再起不可能になるまで撤退できなくなってしまう。企業としての経営判断は、企業が傾くほど傷の広がらないうちに撤退することがポイントだ。だがどうも日本人には、一旦始めるとなかなかヤメられないという特性があるようだ。交通事故が多くても、死者がでないと信号がつかないという話はよく聞くが、文字通り「死人が出ないと動かない」ようなものである。死んで花実が咲くものかではないが、無駄にリソースを浪費してしまっては、経営者とはいえない。完襞なきまでに疲弊してしまってから撤退したのでは、何の可能性も残らない。参入の自由の裏には、撤退の自由がなくていはいけないのだ。

実は新しいビジネスへの参入は、それなりのビジネスチャンスの可能性と、経営資源調達の手段があれば、比較的理性的に判断できる。そんな難しいことではない。事業計画にも、楽観的予測、悲観的予測があるが、どちらにしろ「予測」であることには違いがない。やってみなきゃわからないのだ。だからこそ、当るも八卦、当らぬも八卦。決断には、思うほど統率力は必要ない。いわば料理は目の前にあって、そのディッシュを食べるか食べないかみたいな判断である。毒饅頭かもしれないとか、いろいろ理由はつけられるが、蛮勇があればバカでもできるかもしれない。いやそのほうが決断しやすいともいえる。目をつぶってOKすればいいだけのことだ。

しかし、すでに始めようと決定したプロジェクトをヤメにすること、ましてや多くのリソースを投入し現実に動いているプロジェクトを中止するというのは、一筋縄では行かない。プロジェクトを立ち上げ、引っ張ってゆく以上の労力と努力が求められる。それだけ、「ヤメる」決断をするには、明確な判断力と強いリーダーシップがいる。日本の病巣はここにある。こういう決断にリーダーシップを発揮できる人間が極端に少ないのだ。第二次世界大戦中、甘え・無責任型のリーダーしかいなかった帝国陸海軍は、参戦したのはいいが、泥沼化しても戦線から引くに引けなくなり、玉砕するしかなかったのもこのためだ。文字通り、死ぬまでヤメられないバカである。

リソースが尽きるまで、無為無策に過ごし、結果としてヤメになるというのでは、リソースの無駄遣いでしかない。何も判断せず、何も決断しないがゆえに、本来は使わなくても良かったリソースを浪費してしまう。判断をしなくてはならない人間が、自分の責任において自ら損失を背負うと決断したなら、これもこれで自殺的ではあるが一つの判断である。その判断の是非は問われるだろうが、ある種の確信犯といえないこともない。しかし、どういう道を選ぶかという判断さえしないで、そのような自殺行為に突入するというのは、それ以上の悪業である。しかし、日本のリーダーや経営者というのは、あまりにこういう無責任な態度を取りすぎる。

これからの時代の特徴は、「不確定な時代」ということになる。右肩上がりの時期のように、先が読めないのだ。その分、トライ・アンド・エラーをくりかえしつつ、リスクを最小限にとどめられるかどうかが成功のカギとなる。このためには、引き際の見極めが何よりも重要になる。「引き際の魔術師」ならば、多少のリスクがあっても、実際の損失は極小にとどめられる。それだけに、今までのアバウトなイケイケ攻撃しかできない日本人のメンタリティーでは、時代を乗り切ることは難しい。乗り出すことより、引くこと。ヤることよりヤメること。そのタイミングをクールに見切れる資質がリーダーに求められる。しかしこの資質、実はギャンブルで勝つ極意と同じなのだ。稼げるギャンブラーは冷徹なもの。なるほど、日本のリーダーにはそういう人材はあまり見当たらないのだが。


(01/09/21)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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