高付加価値人間と低付加価値人間






これからの21世紀の社会は、ソフト化・サービス化された社会になるといわれる。ソフト化・サービス化というと、全ての産業構造が高付加価値の知的生産ビジネスになるような気もするが、もちろんそんなことはない。ソフト化・サービス化された社会は、高付加価値業務に従事している人間と、低付加価値業務に従事している人間との間で、決定的に待遇に差がつくところのほうに特徴がある。産業社会は、工場のラインに代表されるように、誰がどういう作業を行い、どのくらい付加価値を創出したかについては、極めて曖昧な匿名性の社会。それゆえに「平等幻想」がリアリティーを持った。だが、これからの付加価値社会では、個々の人材の個性やパーソナリティーがものを言う。ここは、匿名ではない、顔の見える社会なのだ。

しかし顔や個性が見えるがゆえに、「平等幻想」はもはや立ち行かない。そもそも人間というのは均質ではないからだ。人の顔の数だけ、得手不得手がある。だからこそ適材適所という考えかたができるし、だからこそいいところをより伸ばそうと努力する意味がある。これは、社会に活力を与えるモチベーションの源泉でもあるのだ。もちろん、いつも言っているように人間どこかはいい所がある。そこで貢献するべく生まれてきている。それを生かそうとしない人、高望みをして自分の強みが生きる分野以外で貢献しようとする人。こういう人達を、きちんと自分の強みを生かすべく努力している人と平等に扱ったのでは、努力している人に失礼というもの。

そもそも日本人は「甘え・無責任」な悪平等指向なので、何もしなくてもそれなりに評価されることがわかれば、決して努力などしない。現在の日本は、まさにこれである。何もしなくても、そこそこの待遇が得られ、そこそこの生活ができてしまう。それがおかしいのだ。努力してもしなくても同じなら、誰も自分を磨こうとはしない。こんな社会が長続きするはずがない。ごく一部の、自分を高めることが趣味とも言える人たちが、自助努力をしているから、今の日本がかろうじて支えられている。それとて蜘蛛の糸ではないが、余りに多くの「甘え・無責任」の人達がぶる下がったら耐えられない。「Two Economies」の真相はここにある。

優れた能力をさらに磨く努力をした人を高く評価するのは、正当な評価、フェアな評価である。差別でもなんでもない。これに腹を立てたり、不満を感じたりするのは、自分が努力したくないことの表れでしかない。それより努力もせず、能力も劣っているのに、年功だけで評価されてしまうほうが逆差別だ。日本社会、日本企業のほとんどが、今までこの逆差別のスキームにのっとってきた。まさに、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」の世界である。どんなに不合理で、どんなに不正であっても、みんなで信奉してしまえば正しくなる。これじゃカルト教団と変わらないではないか。

しかし、過剰に周りを気にしすぎるのもまた、日本人の特徴だ。努力しなくてはいけないということになれば、今度は過剰なくらい努力してしまう人も多いはずだ。そのためには、「努力しなくては成果が得られない」スキームを作ることがカギとなる。甘えていては、低い評価しか受けない。まさに、雇用の市場原理である。高い待遇を得るためには、自分の優れたところを発見し、そこを伸ばす必要がある。そうすれば、今はフテ寝を決め込んでいる人間も、その多くが改心するだろう。それでも向上心を持たない人間はいるとは思うが、それは少数である。このパラダイム・シフトさえできれば、日本もきっと活性化できるに違いない。要はモノの考え方なのだ。


(01/09/28)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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