集団と個人







21世紀に入ってまもなく一年になろうとしている。今までの300年ぐらいに渡って人類を規定しつづけた近代のパラダイムも崩壊し、新しい秩序に向かって歩みだした実感も感じられるようになった。それを象徴するかのごとく、世界では「近代の常識」では処理できない大きな変化が次々と起こっている。その中でも、高度成長の中で「甘え・無責任」の惰眠をむさぼってきた日本の大衆だけが、大きな流れから取り残されているかのように見える。これから、自分達はどこを目指して進むのか。それを明確に意識しなくては舵取りはできない世の中だ。

しかし、こと日本の状況を見るにつけ、大衆の意識は余りに低いレベルにとどまっている。そして、悪平等社会だけあって、リーダーシップを取るべき地位にいる人間まで、大衆的な他人任せで受身の行動意識を丸出しにしている。今まで通り、世界の工場を目指すのか。付加価値の時代に対応してステップアップし、世界の知恵を目指すのか。これから取ろうとする方向性によって、求められる人間の能力や姿は大きく異なる。この違いを無視して、単に程度の違いのような議論をしても始まらない筈だ。しかし、あえてその議論を避けているかのようにさえ見えるのが現状だ。

世界の工場を目指すなら、そこで求められるのは、今まで通り集団の力だ。集団の力は、匿名性に基づいている。これなら「甘え・無責任」体質の人材でも使いようがある(もっとも、その場合でもリーダーは「自立・自己責任」でなくていはいけないのは言うまでもないが)。一方、世界の知恵を目指すなら、間違いなく個人一人一人のレベルアップが必要になる。個人の力は、個々人の個性にもとづいているからだ。この場合には、人間像に関してもパラダイムシフトが必要になる。今までのような、無責任な大衆ではいられない。痛みを伴う改革の痛みとは、減収や失業ではなく、この自己改革の痛みなのだ。

工業化社会の日本、19世紀から20世紀にかけての日本は、個人を否定し、集団の力にのみ頼っていた。「追いつき、追い越せ」が戦略とするならば、もともと日本人の持っていた「集団の匿名性に紛れよう」という性癖はまさにベストウェイだったからだ。もっとも「追いつき、追い越せ」は戦略ではなく、成長のための手段ではないかという話もあるが、だからこそ匿名性が強まったと言うこともできる。日本の企業の社員は、名前ではなく肩書きをアイデンティティーとしつづけていたことが、何よりもそれを証明している。要は個人の能力は重要ではないということだ。

年功序列も、終身雇用も、全てその「集団主義」を前提にしたスキームだ。しかし、その時代は終ったことを認識する必要がある。だが、刷り込みがキツすぎたのか、何世代もそれで楽をしてきたせいか、その発想から抜け出せない人たちが余りに多いところに、今の日本の不幸がある。匿名集団は、その中にいる限り、とにかく楽なのだ。だれも居心地の良いぬるま湯な環境からは出たがらない。ましてや彼らは受身体質なのだ。「甘え・無責任」体質と集団の匿名性がフィットしすぎた。そして、集団であることにひたりきったのが20世紀の日本人だ。その可能性も限界も、ここに求めることができる。

集団にひたりきると、自立することができなくなる。それは人間も動物も同じだ。動物園で飼育されている動物のように、人間に餌付けされてしまった動物は、たとえ野生の生まれで捕獲されたものであっても、そのままでは自然の状態で自分でエサを取って生きてゆくことができない。自然に放しても、エサが取れずに死んでしまう。ましてや、動物園で生まれ育った動物ならなおさらだ。自然に帰してやるときは、エサが捕れるまで自然の本能を回復すべく、トレーニングを積まなくてはならない。

ワシントン条約違反で摘発された、密猟された珍獣が保護されたときなど、野生のカンを取り戻させるまで、かなりの手間をかけて訓練するという。そのトレーニングは、餌付けされることに慣れた身にとっては、きっと辛いことだろう。多くの日本人は、この「保護された密猟珍獣」同様の状態にある。このままで「個人の力で生きてゆけ」といわれても余りに甘えすぎで、それができない。リハビリ、トレーニングが必要なのだ。だが、少なくとも人間だ。自分で自分を律する力はあるだろう。今日の苦労が、明日報われる。それを信じて実行した人間にのみ明日はある。それさえイヤだというのなら、もはや人間ヤメるしかないだろう。飢えて野垂れ死ぬがいい。


(01/10/05)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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