自殺志向と無責任







少なくとも現代の日本においては、自殺することは、建前上「責任を取る手段」とみなされている。したがって、自身のミスにより大きな事件を引き起こした責任者など、責任を問われた人が自殺という手段で問題の解決を図ることも多い。しかし色々な嫌疑、特に汚職とか業務上の犯罪の可能性を指摘された人が自殺する場合を考えてみればわかるように、それは往々にして「問題をうやむやにする」解決策として機能している場合も多い。というより、死後、事の詳細がむし返されることはなく、死人に口なしとばかりにうやむやになり不問に付される場合がほとんどである。そう考えると、自殺とは「責任を曖昧にする解決法」と言ったほうが的確かもしれない。

事実、「限りなく黒に近い」と誰もが思っている被疑者が自殺した場合、ほとんどの場合そこで追求は終ってしまう。黒なのか白なのかはどうでもよくなり、記憶が薄れると共にどんどん曖昧になってゆく。疑惑の中で自殺した政治家の例を上げるまでもなく、自殺した事実は記憶に残っていても、「何で自殺した」のかは、去るもの日に疎しである。ましてや、あれだけ生前は寄ってタカって取り上げていたワイドショーやイエロー・ジャーナリズムも、死んでしまえばパッタリである。皆興味を持たなくなってしまう以上、誰も取り上げない。全くゲンキンなものである。

しかし考えてみると、このご都合主義はどうやら日本独特のもののようだ。諸外国では「死後の責任追及」や、それと対を成す「死人の名誉回復」がしばしば重要な問題となる。これからもわかるように、死んだからといって「責任追及はオシマイ」とはならず、個人としての責任はそれこそ「故人」となっても徹底的に問われるのが常識である。それのみならず、自殺は自己責任逃れの無責任な行為として否定的にとらえられることが多い。どんなイヤなこと、辛いことからも目をそむけず、生きて自分の責任を全うすることが、人間としての正しい選択なのである。この視点からは、自殺とは無責任な逃避行為でしかない。

それだけではない。世界では主流の一神教的世界では、そもそもご都合主義は許されないのだ。そういう世界観では、宗教によってその呼び方は違うが、唯一絶対な存在があり、その前で誓い契約することにより、自分のアイデンティティーがはじめて生まれる。その契約の中では、自分が自分である以上果たすべき義務や責任が明確化している。少なくとも自殺してしまったのでは、現世で果すべき義務や責任は果せず、途中で放り出してしまうことになる。救いは、現世での自分の責任を果たしてこそ得られるものであり、自殺なんかした日には、それこそ地獄か何か救いのない世界に落ちるしかないのだ。

もっとも宗教的バックグラウンドについては、思想信条の自由ということもあり、どちらがいいといか、どうすべきだとか、とやかく言えるものではない。しかし、日本人の土着的宗教観は、極めて現世御利益特化型であることは否定できない。その結果、死んでしまえば現実の問題は「あとは野となれ山となれ」という、無責任型の「極楽浄土意識」にならざるをえない。極楽浄土とは、面倒なことや問題から全て免罪され、楽天的に振舞えるからこそ「極楽」なのである。少なくともこれだけは確かだし、何人も否定できないことだろう。だから、大変な「生きて責任を取る」ことを嫌い、それから逃れる手段としての「自殺」がクローズアップされる。

そういう考え方がベースにあればこそ、「苦から逃れるために死を選ぶ」発想になる。本来なら宗教とは、自ら苦行に耐えることで精進し、自分を高め、悟りを開くものである。こういうメンタリティーはあるからこそ、自助努力をする。そしてその悟りこそ「自立・自己責任」なのだ。元来、日本でも仏教が伝わったときにはそうだったはずだ。そういう発想からは、自殺して楽になる考えは生まれるわけがない。しかし、鎌倉仏教あたりか、宗教の大衆化が始まる時点からおかしくなった。それ以降の日本では、そもそも「大衆大乗」的な宗教観しか成り立ち得ないのだから仕方ないのかもしれない。

元来、切腹は恥であった。武士が武の文化を背負っていた戦国時代や江戸時代の初期まではそうであった。切腹を命じられれば、お家おとり潰しがセットになっている。この段階ではきちんと責任をとる構造があった。しかし、平和な世が続くと構造は変質する。段々切腹は美学化される。切腹してしまえば責任は問われず、個人の名誉も保たれる。ましてや子々孫々の恥やダメージになるわけではない。江戸時代を通して、まさに責任を「チャラ」にする手法化してしまう。これはまさに、日本人が「甘え・無責任」の文化にひたってゆくのと軌を一にしている。

実は日本の自殺指向の裏には、このように「逃げの文化」「無責任文化」が強固にはびこっていることがわかる。これまた「甘え・無責任」で受身志向という、日本人の悪癖そのものなのだ。そういう意味では、「自殺による免責」を許してしまう、日本社会の構造的問題が余りに大きい。好むと好まざるとに関わらず、世界では死んでもなお責任を追及するカルチャーのほうが主流である。この二つのカルチャーが正面からぶつかれば、「甘え・無責任」に分がないのは明らかだ。どこまでも自分で責任を果してゆくカルチャーがあるかないか。これは、個人の価値観だけではなく、それをとりまく社会の価値観の問題でもあるのだ。



(01/10/12)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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