勝負はついた






どうしてそうなんだ、と問われても今ひとつスマートな説明には窮するが、直感的に「あ、もう来たな」と思うことは良くある。そして、しばしばそういう直感は、ロジカルな判断より、タイムリーで正しいコトが多い。この数年、日本の社会は分水嶺の上にいるな、ということは感じつづけてきた。それもまた、数年前に直感的に「来てるな」と感じたことだし、それが何年かして誰にも説明しうるコンセンサスになったものである。だからこそ、いろいろな場を通じて「勝負をかけるべきだ」「甘え・無責任を脱して自立・自己責任で行くべきだ」、と主張してきた。

しかし、ここ一・二週間感じていることは、時代の歯車がもう一つ先に進んでしまったのではないかということだ。もっとはっきり言えば、もはや社会の分水嶺だけではなく、個人の分水嶺も越えてしまったのではないか、という感じがひしひしとしている、ということである。イス取りゲームはもう終り。全ての扉が全て閉じられた、とはまではいわないが、基本的には最後の審判はもう終了してしまい、これからじたばたしてももう始まらないところまで時計の針は進んでしまったのではないだろうか。あくまでも直感でしかないのだが、強烈にそれを感じる。

それを後押ししたのが、同時多発テロ以降の諸々の状況であることは言うまでもない。しかし、それは外面的な事件そのものより、それらにより代表される「人間世界のあり方」の変化のもたらしたもの、といったほうがより正確だろう。人類は、日本人が望むと望まざるとに関わらず、20世紀までの産業社会とは違うレイヤーに移行してしまった。人類全体を状況がそうなってしまった以上、もはや悠長なことはいっておれない。どう準備するかではなく、どう対応するかが問われている。そうなってしまえば、いまから0からの努力をしたところでどうにもならないのはおわかりだろう。もはや練習のフェイズではなく、実戦のフェイズなのだ。

もちろん、アメリカをはじめとする「日本に外圧をかけていた諸国」が、一義的には戦時対応優先になる分、直接的なグローバル化への外圧は減るだろう。だからといって、利権と規制の悪平等の共産主義社会への逆戻りが許されるワケではない。競争原理、市場原理が供給者の論理とは適合しなくても、受益者にとって大きなメリットがある以上、一度踏み出した構造改革への動きは止められるものではない。それに加えて、世界的に起こるであろうリセッションの波は、悪平等を指向する共産主義者にとっては、息の根を止める追い討ちになるはずである。

過去においても、日本の構造変化、構造改革は、世界的なリセッションの波が押し寄せ、それに対する対応が否応なく問われたときほど進んでいる。ドルショック、オイルショック、円高不況など、特に企業を中心として組織論や経営戦略、マーケティング戦略等に関する改革が断行された。これらの体質改善に成功した企業が、今日本企業の中でもグローバルブランドを確立している。そういう意味では、日本人は追い風の時には甘い体質になるが、苦境の時代になれば、少なくともマジメにモノを考える人はきちんと対応するはずだからだ。

Two Economiesと呼ばれる日本社会は、少なくとも国際競争力を持つ部分に関しては、今直面している状況を真摯に受け止め、それに対する過剰なまでの適応に成功するだろう。その一方で、それができない「お上だより」の領域については、一切のごまかしが効かなくなり、現状を維持することも不可能となるだろう。日本はTwo Economiesであるのみならず、Two Societiesでもある社会となる。21世紀最初の年は、文字通りこのような21世紀型スキームへと戻れない一歩を踏み出した記念すべき年となるだろう。

それとともに、当然リーダー層とフォロワー層の分離が起こる。しかしそれは、意外にもすんなり行くのではないか。そして、各個々人がどちらにいくのかは、すでに自他ともに認めるところになっているのではないか。最近イロイロなところで見聞きし、感じたコトを総合すると、もはやこの峻別は済んでいるように思えてならない。「フォロワーがいい」という選択をする人のほうが、明らかに多いと考えられる。実は、これが直感の真相である。もしそうならば、難しいことをとやかく言っても始まらない。それぞれ自分が思う道を進めばいいだけである。大事なのは、自分が選んだ結果に後から文句は言わないことだが、それとてあまり問題にはなりそうにない。

最近よくいわれることに、「社会階層の分化が進んできた」ということがある。しかしこれも実態としては、分化が固定化し再生産される段階にきているとみたほうが正しいだろう。そうなると、問題は「能力=才能×努力」の公式で、「才能」の部分に移る。特殊技能や知的生産でグローバルに通じる付加価値を生み出せる可能性のある人間と、どこまでいっても結局は労働集約的単純作業になってしまう人間。それは、DNAに才能が埋め込まれているか、いないかで決まってしまう。努力以前の問題として「プーの子はプー」ということだ。好むと好まざるとに関わらず、パンドラの箱の蓋は開かれてしまった。

自助努力や経営の工夫・才覚を発揮する遺伝子をもたない人は、いくら農地改革で一旦は自分の土地を得たとしても、それを充分に活用することはできない。それだけでなく、規制や補助で守られない競争原理が働けば、一度は得た土地も、それを上手く活用し業態を拡げることができないため自らの手の内に守ることはできず、その土地はまた、自助努力や経営の工夫・才覚を発揮する遺伝子を持つ人々の元へと移ることになる。長い目で見れば、世の中の輪廻転生とはそういうものなのだ。数十年スパンではいろいろ変化があっても、数百年スパンではある幅のゆらぎでしかない。変化のときである今は、人類の宿命とはまさにそういうスパンで考えるべきものであることを、改めて感じ取るべき時なのだ。

(01/10/19)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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