情報化時代のリーダーシップ





情報化社会の実現により起こった変化にはいろいろなものがある。その中でもっとも基本的で重要なものは、情報そのものがフラットでどこにでも転がっているモノになったことだ。よく言われているように、「情報を持っているだけ、独占できるだけでエラぶれた時代はオワり」になった。そのかわり、その情報を活用して、どれだけ価値を生み出せるかにより評価が決まる時代。「10の情報から10の価値」を引っ張り出しても、何も価値を生み出していないことになる。それよりも、「10の情報から100の価値」を生み出す力が大切なものとなっている。

いままでの社会では、基本的に価値を生み出さなくても済んだ。産業社会というのは、基本的に成長、右肩上がりを基本としている。だからビジネスにしろ、政治にしろ、右のものを左に流すだけでも、天から降ってくる「増分」だけは少なくとも手に入った。もちろん価値を生み出す人もいたが、そこまでしなくても「天の分け前」だけでも充分にオイシイとなれば、努力するのは変人だけということになる。そして、そのような社会構造に特化したのが、ピラミッド型の組織構造だったことはいうまでもない。

この時代なら、ヒエラルヒーは年功序列でも何でもよかった。各ポジションは、右から左へ流してゆくバケツリレーの途中でしかなく、そこに「いればいい」。一見ヒエラルヒーの上下があっても、実際は単なる順番に過ぎず、バケツリレーに参加するのが先か後かという問題でしかない。年功型組織というのは、そう考えれば「先のほうが多少ご利益が多いので、ベテランにおいしいところをあげよう」程度のことでしかない。ピラミッド型の組織が前提としているスキームでは、リーダーは何ら「判断」は求められていないからである。

ピラミッド型組織の典型といえる軍隊について言えば、こういうことになる。基本的に正規戦・総力戦なら、敵の兵力や陣容さえわかれば、おのずと戦い方は決まってしまう。もちろん兵力の不均衡を前提とすれば、奇襲や策略も必要となるが、大部隊同士が正面切ってぶつかる場合は、おのずとセオリーで決まってしまう。今まではビジネスにしろ、行政にしろ、組織というのはそういうバックグラウンドを前提にした構造を持っていた。だからこそ、年功制も取り入れられたのだ。しかしこれからは、予期せぬ事態にもリアルタイムで最適化した対応が可能なよう、組織の形態も変化しなくてはならない。

こうなると、リーダーに求められる役割も大きく変わる。責任ある地位、リーダーシップを果すべき地位にある人間は、限られた情報を元に、そこから最大限の価値を生み出す能力が求められるようになる。しかし悩ましいのは、情報から価値を引き出し最適な判断を導く力は、属人的であり、かつ人により大きく異なる点だ。当然、リーダーとして必要な能力や、求められる人間像は大きく変わる。具体的には、マネジメント能力、もっとはっきり言うと「遺伝的な天賦の形質」としての「マネジメントの才能」の有無、つまり器の有無を見極めた上でポストにつけることが必要になる。

ポストにふさわしいかどうかは、年功でもキャリアパスでもなんでもなく、その人が持っている能力次第ということだ。しかし、こと日本においては、ポスト選びにおいて能力を吟味することはあまりなかった。それが珍妙な人事を生み出すことは良くある。プロスポーツを見ていても、「名選手、必ずしも名監督、名コーチならず」ということをよくわからせてくれる事例は多い。それなのに、選手としての功労から、監督やコーチに抜擢されるような人事が横行している。同じことは会社でも横行しているはずだ。

モノ書きについて言うならば、ライターと編集者は使う能力が似て非なるものである。監督と選手も同じ。名選手で名監督という人、編集者としてもライターとしても一流という人。そういう人がいるのは事実だが、それは「両方に才能を持っていた」からこそできる話である。いわば「料理の鉄人でかつトップ・カーレーサー」みたいなものだ。このぐらい分野が違えば「違う能力」として理解されるだろうが、分野が近かったり、隣接したりしていると、どう勘違いが横行している。分野が似ているからといって、違うコンピタンスを混同してはいけない。

リーダーにふさわしいコンピタンスを持つ者だけが、リーダーシップを取る。この人材選別のカギは、競争原理しかない。フラットでオープンなチャンスがあれば、能力があるものは遅かれ早かれ、必ず頭角をあらわす。そうなれば潜在的に才能をもつものは、それを生かすべく最善の努力を図るようになる。これがころがりだせばグッドサイクルを生む。人材に市場原理が働けば、必ず適材適所で人が上がってくる。属人的能力を問うには競争原理が最適である。ここで大事なのは、ポジションに貴賎がないスキームを築くことにある。ポジションによって生み出す付加価値が違う以上、その分け前としてのリターンが違うのは当然だ。しかし、リターンの多少が、そのポジションの価値を示すものではないことは確立しておく必要がある。

そのためには悪平等を排し、多様性を担保するコトがなにより必要になる。そのためには、やはり「自立・自己責任」社会の構築がカギだ。こうなるといつもと同じ結論になってしまいそうだが、、実はこの問題の解決には巧妙な裏ワザがある。判断を行なうリーダーというポジションは、極めてハイリスク・ハイリターンである。ここにヒントがある。「リーダーは責任が重いぞ」。「リーダーが誤ったら大変だぞ」。これをいやがうえにも強調すればいいのだ。それが徹底すればするほど、リーダーとは誰もがなりたがる存在ではなく、好事家、物好きとはいわないまでも、リスクを厭わない人だけがなろうとするポジションということになる。

そもそも「甘え・無責任」な人間は、ローリスク・ローリターン、極端に言えば、ノーリスク・ノーリターンを最も好む。ハイリスク・ハイリターンには足が遠のいてしまう。そうすれば、自己責任でリスク・テイキングができる人だけが、リーダーシップを取るべきポジションにつくことになる。従って、この踏み絵さえ明示できれば、世の中、おのずといい方向に向かうだろう。そう考えれば、実は今の日本社会を救う秘策は、この「リスクの明示」に他ならない。そうすれば「甘え・無責任」なヤツらは、皆殻にこもってしまう。「アカを殺すにゃ刃物は要らぬ、リスクのデカさを見せりゃいい」というところだろうか。


(01/10/26)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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