「狂牛病騒動」と日本人





連続テロ以降の不安定な国際情勢や不透明な経済情勢にもかかわらず、にわかに巻き起こった「狂牛病パニック」は、日本では予想以上に猛威を振るっている。その結果、食品流通や外食産業にも大きな影響を与え出している。狂牛病はバイオテロじゃないし、即発の伝染性のものでもない。どちらかというと、話題になったからといって、それから気にしだしてももう遅い、という類のリスクだ。よく考えてみれば、今更焦っても仕方がない。だが、現実はこのマス・ヒステリー的なていたらくだ。本当に危険なときはのほほんと過ごしていて、報道されると過剰なまでに気になりだす。まさに日本人の脳天気さを体現している事件といえる。

少なくとも現状では全数検査を行い、疑問のある個体はシロとわかるまで出荷していないし、脳や骨髄は除去するようになった。全数検査が信頼性100%とはいえなくても、以前よりはリスクは減っているはずだ。今の体制の良し悪しはさておき、何もやっていない段階のほうがよほどリスクが高いことはいうまでもない。純粋に確率論からいえば、今までに狂牛病感染の牛が食肉として出荷され、すでに知らずに食べてしまっている危険性のほうが高い。はっきりいって、危険性から言えばそういうことになる。そう考えれば、今更気にしたって始まらないのだ。

しかし、もはや手遅れであろうと、タイミングを逸していようと、話題になると過剰なまでに反応するのが日本人の悪癖である。そしてそれは往々にして、的外れな方向に突き進んだまま、大騒ぎすることになる。食べ物のパニックでも、直接即効性のある危険性にさらされるものであれば、ある種、パニクってしまうこともわらかなないでもない。たとえばO-157騒ぎとか、雪印食中毒事件とか、それに当ればたちどころにやられる、言うものだ。それはさておき、過去の例だと所沢ダイオキシン騒動とか、東海村放射線漏れ事件とか、事後に騒いでもどうしようもないものにも過剰に反応しがちである。

そういう類のリスクは、報道されたときにはもう終っている。心配するだけムダというものだ。こんなものは、ちょっとばかりの冷静さと理性を持って、きちんと状況を飲み込めば、普通の理解力があれば充分わかることだろう。というより、これだけ毎回同じコトをくりかえしているというのは、日本の大衆というのはそのレベルの理解力しか持っていないコトの表れだろう。よく理解力のなさやスキャンダラスなものへの迎合という面から日本のマスコミを批判する人がいるが、マスコミが大衆の代表である以上、批判されるべきは日本の大衆の無理解さ、無責任さである。まさにこれもまた「甘え・無責任」のなせるワザなのである。

そもそも、喰いモノなんて自分でリスクを負って食べるべきものだ。喰ってアタろうが、自己責任。大体、同じモノを喰っても腹をこわすかどうかは、個人差が大きい。多少痛んだものを喰っても大丈夫なヤツ。全然問題なくても、メンタルな刺激だけで腹をこわすヤツ。人それぞれなのだ。喰いモノを目の前にして、それに口をつけるかどうかは、最終的には自分で決めるしかないこと。そうである以上、全て自己責任で判断すべき事柄だ。ましてや、喰った結果起こった結果について責任を取ってもらうなんて言語道断である。しかし、こと日本で起こった食物関係の事件を振り返ると、その原因は結局、喰って起こった結果への責任をお上にとってもらいたいという、甘えの精神のなせるワザに他ならないコトがわかる。

ぼくは、世界のいろいろな現地の食べ物を、現地の人の食べ方で食べるのが好きである。とはいうものの、もちろん探検家ではないので人跡離れた秘境は行かないし、せいぜい街の屋台とかでのハナシである。そのぐらいなら、現地の人が食べて大丈夫なものなら、ぼくも大丈夫という自信はあるし、その程度の胃腸の強さは実績がある。それなら自己責任で食べればいい。それでトラブルにあっても、単に運が悪かったということ。誰に泣きつくことではない。次から自分が反省して、リスクのレベルを考えればいいだけだ。所詮はそういうレベルのハナシなのだ。

それを、ウマくいかなくて困ったときに、誰かにすがろう、頼もうとするから、頼れるものがなかったときにパニクる。バカなヤツが、自ら勇み足してあわてているようなものではないか。こういう問題については、そもそも「お上のお墨付き」という発想自体がおかしい。日本人はこの手の騒動が起きると、すぐ「お墨付き」の話になるし、「お墨付き」を出した官庁の責任の話になる。そんなもの頼るほうがおかしいのだ。頼るからこそ、「平時」にも役人が威張るようになる。自分で自分の行動の責任をとれない人が、一人前の人権を与えられているからおかしくなる。

そういう意味では、危険の可能性を告知する以上のコトは必要ない。あとは市場原理である。恐ければ喰わなければいいし、恐くなければ喰えばいい。こと、この問題については、現在の検査法には誤差があることと、最終判定が出るまでまで出荷を停止していることがわかっていればいいはずだ。この意味をロジカルに理解していれば、現状で何ら問題はないし、さほどのリスクもないコトはわかるだろう。実態をディスクローズできれば、それ以上はいらない。あとは、受け手が判断すれば良い。ディスクローズせず隠すのは言語道断だが、きちんと実際をそのまま示せばそれ以上のことは必要ない。あとは全て、自己責任の問題だからだ。


(01/11/02)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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