頭でっかち







どうも日本人は、ともるすと頭でっかちになる傾向があるようだ。理屈好きといおうか。現実や事実を直視せず、知識の上に構築した理論だけをよりどころにして議論したり判断したりしようとする。特に、実は活字系メディアであるWebが隆盛になるとともに、そういう上滑りした理屈っぽさが一段とエスカレートしている感じさえする。特にオタク度の高いモノほど、かつての新左翼の内ゲバよろしく、互いに理論闘争を繰り返している。ホームページや掲示板で、必死に理屈をこいている彼らを見ると、滑稽を通り越して哀れな感情さえ湧いてくる。それはある種、理屈に理屈を積み上げることが、自分の味方を集め、自分への支持を強めることになると信じているフシが感じられるからだ。もしそうだとするならば、それは彼らの原体験の中で、理論が自分の立場を強固にするという刷り込みがあるからだろうし、そのベースには、それを認める社会があることになる。

さてオタクというのは、そのアタマの構造は学者、特に理科系の学者とほぼ同じだ。ただその興味の対象が社会的には価値を認められているものではなく、極めて個人的、あるいは限られた集団の中でだけ価値を認められるものに向かっているというだけの違いでしかない。だからこそ、理系に進む学生さんにはオタクが多いし、学問の中でも辺境のエリアにある領域では、オタクと紙一重の「マッド・サイエンティスト」が登場してくるわけである。これは昔さる本の中でも書いたことがあるが、基本的にオタクの皆さんは極めて記憶力がいいし、極めて知識が豊富なのである。まさに斯界での「歩くデータベース」なのである。高校時代の友人には、その記憶力にモノをいわせて、時刻表を丸ごと暗記してしまった鉄ちゃんがいたが、そういう世界なのである。

そう考えると、かつてのfjのようなnews group、niftyのようなパソコン通信、今でいえば2チャンネルといった場にはつきものの「困ったちゃん」がどうして発生してくるか、容易に理解できるであろう。彼らにとっては、知識の豊富さが正義であり、力であり、強さなのだ。まさに今では死語となった「知は力なり」である。現実がどうあれ、彼らは、自分のアタマの中にある知識のバイト数を比べて、その大きさゆえに自信を持つ。現実ではなく、知識というヴァーチャルな世界のほうをよりどころとしているのだ。これはまさに、ディジタル化され、インプットされたプログラムとデータで規定された範囲の中で動くという、コンピュータの世界の正義感とウリ二つ。居心地が良いワケだ。だが、システムの向こうにいるのは人間だ。そう簡単にコトが済むワケはないはずだのだが。

しかし、なぜか日本ではそれがけっこう許されてしまう。知識が多いことを是認してしまう風潮が、社会の中にあるためだ。その原因は、偏差値教育に求められる。ディープなオタクになる層。マッドサイエンティストになる層。彼らは社会性という意味では、常識を逸脱している。しかし、脳にどれだけ知識が詰め込まれているかという点においては、他者の追随を許さないものがある。まあ、詰め込みすぎておかしくなるぐらい詰め込んでいるから、社会性がなくなるとも言えるのだが。それはそれとして、アタマの中にいつも辞書や事典を抱えているようなものだ。したがって、テストの点数はいいのである。これは偏差値教育を前提にするなら、それなりの居場所があることを意味する。

へんなヤツだが、試験の点数はいい。変なヤツだが、勉強はできる。全人格的な評価なら、当然ランク外に出てしまうようなヤツでも、試験の点数だけが評価基準となれば、評価されてしまうのだ。こういうおかしな考え方が蔓延してしまっているから、おかしなヤツが蔓延することになる。考えてみれば、エリート官僚の不祥事も、同じところにルーツがある。テストの点数だけで人間を選んでしまうから、人格欠陥者が高級官僚でございとばかりに、社会的地位と権限を認められることになる。もちろん、人格的に立派で、なおかつテストの点数もいいという人もいるのは確かだ。だが、テストの点だけがものを言う世界には、そういう人間は集まりにくく、テストの点だけがいい人格破綻者が、類は友を呼ぶとばかりに集まることを忘れてはならない。

もっとも、今までの産業社会の構造を考えてみれば、むべなるかなという点がないわけではない。産業革命以降、物理的な力の機械化は進み、工場の機械化、自動化は進んだ。しかし、管理機構や事務部門といった情報処理を伴う業務は、長らく人海戦術で対応せざるを得なかった。事務処理に役立つコンピュータの登場は、20世紀の後期まで待たねばならない。したがって生産部門の生産性が上がれば上がるほど、本社の労働集約化は増すことになった。このような「過渡的局面」では、まさに「人間コンピュータ」的な、知識型人間が大量に必要とされたことも確かだ。しかし、それも過去の話。いまやインターネット時代である。どんな知識豊富な人間でも、スタティックな知識比べをしたら、検索エンジンにはかなわない。蛇の道は蛇。知識はコンピュータに任せればいいのだ。

そういう意味でも、秀才の時代から、天才の時代へという流れは非可逆のトレンドといえるだろう。秀才は天性のものではなく、知識の蓄積と努力の成果である。その意味では、秀才は一代限りのものだ。知識は受け継げないからである。しかし、天才はDNAが生み出す。天才の素質は遺伝するのだ。その形質を持たないものが、いくら努力しようが勉強しようが追いつけない。秀才が求められたのは、コンピュータ登場前の産業社会のスキーム固有の現象だ。巷にあふれる頭でっかちの「困ったちゃん」は、行き場を失った「秀才」モデルにオプティマイズしすぎた人達の断末魔とも言えるだろう。まあ2チャンネルとかも、そういうヘンなヤツらが町に氾濫しないようにつなぎとめていると思えば、けっこう社会的意義は大きいのかもしれないが。


(01/11/16)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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