ハイ・ソサエティーの条件






現代の日本ほど、幅広く「大衆社会化」をなしとげてしまった社会はない。悪平等を求めてやまない大衆が、20世紀を通して手を変え品を変え求め続けてきた「平準化」。そして、経済の高度成長と軌を一にして、平準化可能な部分が全て平準化してしまうほど平準化が進んだ。大衆の願望としての平準化はなしとげられた。しかし、元来大衆といえども、人間自体が平準化されているわけではない。百人百様の平準化できない部分は当然存在する。しかし皮肉なことに、社会の平準化が進めば進むほど、平準化し得ない部分、平準化が極めて困難な部分の差異が強調され、強く認識されることになる。もちろん建前としての平等意識や、分け前に預かる権利が誰にも均等という意味での「民主的」な平等感は、それなりに残っているし、主張としても求められている。だが、同じ人間の中でも自分たちとは違う人達が認識されるという意味で、これはもはや「階級社会」なのである。

鉄道でも船でも何でもいいが、ヨーロッパ起源の一等、二等、三等という「等級制」は、元来サービスの差ではなく、そこに乗る人々の階級の違いを示す記号として存在した。だから一等車のほうが確かに格式はある。しかし内実を見ると、一等車は旧式の時代がかった車輌で、サービスそのものとしては必ずしも良くないということも多々ある。クルマの「車格」も元来そういうものだ。だからこそ、イギリスではミニのヴァンデンプラみたいな鬼っ子がでてくることになる。そう考えてゆけば、階級とは世襲されることにより絶対的に成り立つものではなく、あくまでも当人と周囲とのインタラクションの中で成り立つ記号であることがわかる。そして、それはある種の上下関係的な構造を持っているものの、善悪とか良い悪いという問題での上下ではなく、単に住んでいるところの標高の高さみたいなものであることも理解できる。

今の日本社会の問題点は、つきつめてしまえば「階級社会」になっているにもかかわらず、金の有無みたいな単純な定量指標を除けば、自他ともに認識し記号化できる指標を持っていない点である。それさえ、フローとストックをどう評価すべきか明確な基準がなく、目に見えやすいフローをもって「お金持ち」と称しているキライがある。実は相当な金融資産を持っていても、キャッシュフロー面では一般の給与生活者として暮らしている「第二種兼業資産家(笑)」は今日の日本に多い。そういう人達を評価する軸は、少なくとも大衆社会としての日本にはない。これは大きな矛盾である。悪平等を追求したがあまり、自己認識をしようにも、実態のない建前としての平等にさいなまれ、自己規定ができないというジレンマである。これが理解できると、今の日本が抱えている社会的問題も、その本質が容易に理解できる。

たとえば援助交際の問題を例にあげれてみよう。援助交際自体は当人の問題だから良い悪いという評価付けにはなじまない。したがって世の中には、「援助交際をしてもいい」と考えているクラスターと、「援助交際は良くない」と考えているクラスターがある。この両者を識別する「記号」があれば、どちらが正しいと議論することなく、二つの価値観の並存が可能だし、「友達がやっているから、私もやらなくては仲間外れにされる」という「まったりした(笑)」動機から援助交際に踏み切ることもなくなるはずである。教科書問題も、反原発もみんな同じだ。今問われている問題の多くが、実は悪平等主義者自身が悪平等のもたらす弊害に悩まされているという、「悪平等のジレンマ」に基づくものである以上、現状の社会的クラスターの存在を認め、それを記号化して明視化するという「階級社会化」は大きな意味を持つ。

そのなかでもっとも基本的であり、最も重要な「階級分け=クラスター分け」は、数多くの「大衆」と、リーダーシップを果すべき「ハイ・ソサエティー」との分離である。その条件は、世襲や家計ではもちろんありえない。それは人間としての器、能力に帰されるべき問題である。もちろん人間の能力とは、いつも言っているように「才能×努力」であり、才能が遺伝によって決まる要素である以上、世襲的要素がないわけではない。しかし、それはあくまでも入場資格の問題である。本当にハイ・ソサエティーとしての能力を発揮できるには、それに加えて当人の努力が重要になる。その結果として現れてくるもの、その結果を評価する指標はどのようなモノがふさわしいだろうか。それは端的に言って、「『美学』を持っているか、『美学』に殉じることができるか」ではないだろうか。

ハイ・ソサエティーとは、「美学」を持ち、「美学」に殉じることができる人間。こう定義すれば、「自分の内面的満足でしかない美学を持っても、人から羨望のまなざしで見られるわけじゃないし、そんな努力をしても仕方がない」と思う人や、「人間生きていてナンボで、死んだらオシマイだ」と思う人は、「ハイ・ソサエティーなんて、何が面白くてなるんだろう」ということになり、自分から避けて通るようになるだろう。ここが大切、、だからこそハイ・ソサエティー足りうる条件なのだ。イチヌケしたい人は抜けてもいい。でも、義務を放棄すれば権利も放棄される。義務が伴う権利がイヤな人は早く抜けてください。ここが大切なのだ。そう考えれば、無理して投票率を上げる必要などない。政治にかかわりたくない人、関心がない人については、参政権自体を取り上げてしまえばいいだけのことだ。そのほうが、よほど世の中すっきりする。

今や改革の時代である。既存のスキームが通用しなくなるからこそ、リーダーにはなにより新たな枠組みの提示が求められる。リーダーはヴィジョナリストでなくては通用しない。その一方で多くの人は、現実からしか発想をスタートできない。ここにとらわれている限り、革命的なアイディアはいつまでたっても生まれない。そういう人に、責任あるポジションを任せることは、本人にとっても不幸である。あえてそういう「苦労の多い」ポジションにつき、その責任をまっとうしたいと思う人だけが、その地位につけばいいのである。同じ「階級」に属する人の中で、リーダーとノンリーダーが出てくると、これは良い悪いの上下関係が出てくるが、「階級」自体を変えてしまえば、それは人間性の違いの問題になり、良い悪いの問題ではなくなる。リーダー向きでない人が、あえてリーダーのリスクを取らなくても良い。「階級社会」はそういうイージーさを持っているものなのだ。

そういう意味では、大衆は匿名である。余人を以ていくらでも変えられる存在だ。だからこそ無責任でいられるし、組織や権威に甘えても許される。甘え・無責任でいたいなら、それが許されるスキームの中にいれば良い。その一方で、固有名詞、自分の名前で語られる人は、ハイリスク・ハイリターンではあるが、それなりの責任や義務を果さなくてはいけない。それは、つきつめるところ能力の違いである。もちろんリターンは違うかもしれないが、リターンが多いことが「良いこと」ではない。自分にとって良いことが、つきつめれば良いことなのだ。能力の違いに応じて、自分が一番フィットする生き方を選べる社会。それは、能力に応じた「階級」を創出し、それに応じた責任や義務、権利を与えることによってはじめて実現するのだ。


(01/11/23)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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